2008年7月23日水曜日

あとがき - A Love Supreme

最愛の友から教えてもらった占いサイトに『天国からのメッセージ』がある。
久しぶりに入力して占ってみた。
久しぶりでも結果は変わらないと思うが・・・

2008年の僕へ。
元気ですか?
2008年ごろの自分のことを懐かしく思い出します。
僕は93歳で、つまり西暦2052年に、寿命を全うして生涯を終えます。
振り返ってみると、良くも悪くも、自分らしい人生だったと満足しています。
だたひとつだけ過去の自分に、つまり今のあなたに伝えておきたい事があります。
それは 2009年の風の強いある日、僕は自然な成り行きによって、ある家のディナーに招待されます。
そこで、その後を左右する大事件が起こるのです。
メモしておいてください。
最後にひと言、93年間生きてみて思ったのは「世の中たいがいの事は、やれば何とかなる」ってこと。
それでは、またいつか会いましょう。
残りの人生を存分にたのしんでください。

と、私は2052年に93歳で死ぬことになっている。
短命である。
まぁ、当たるも八卦当たらぬも八卦と笑い飛ばすしかない。
だいたい、私が死んだ後もこの世が続いている筈(はず)がない。
それに、いまもって人からは
「若い若い」
と、云われる。
「とても48歳には見えません。どうみても44歳です」
なぞと。

私自身は16歳から大して年を喰ったように思えないので、どうもこの調子で行くと300歳くらいまで生きそうだ。
私の死亡年齢を2259年と占うサイトこそ本物だ。

むかーし、上岡龍太郎が深夜のテレビ番組で、棺おけに入って登場した。
ゲストの大竹まことだったか、彼も棺おけに入って、あと数人のゲストも棺おけに入ったまま、互いの顔はモニターで確認しながらトークしていた。
「狭いけど案外落ち着くなぁ」
とは、上岡氏のコメントだったと思う。

私は狭いのは嫌いだ。
せめて手を伸ばして背中を掻(か)けるくらいの余裕が欲しい。

うん、今の書斎くらいがちょうどいい。
Good bye

2008年7月22日火曜日

ヒポクラテスたち

朝の通勤電車でのこと。
戸塚で松葉杖(まつばづえ)の女性が乗ってきた。
一瞬しか見えなかったが年の頃はアラフォーか。
手で掴(つか)む所謂(いわゆる)グリップ部分は滑り止めに包帯が巻きつけてあり、色はまだ白い。
歩き方がぎこちない。
一目見て怪我をしている人だと判った。
ああ、と思っているうちに人影に隠れ、電車が揺れるとチラチラ見える位置にいた。
グリグリと人を掻(か)き分けるほどテンションは高くない。
電車は横浜に着いて大勢が降りる。
その人も動きを見せて降りるかなと思ったが、私の斜め前に立った。
縦のバーを握ることができるポジションで、さっきまでの真ん中よりは安全だと思ったのだろう。
スジから云って、私の隣のおっちゃん(伯父ではない)、つまりその女性の前の人が席を譲るべきだろう。
しかし、眠ったままだ。
こういうこともあるのだから、電車でグースカと寝るのはいかがなものかと思う。
しかも、横浜から川崎、そして品川は、東海道線の中で最も混む区間だ。
左を見ると茶髪のにーちゃん(兄ではない)が、これまたグースカピースカと寝ている。
スジから云ってこのにーちゃんが
「あっ、僕、若造ですから」
と、人を掻き分けて譲るべきだろう。

「義を見てせざるは勇なきなり!」
席を立って
「どーぞ!」
と、堤真一のように譲った。
堤真一になるのも一苦労である。

品川で乗り換え田町で降りて歩いていると後姿の素敵な女性が前を歩いている。
素敵な後ろ姿と云うのはもちろんお尻である。
ええい!
ここでジロジロ見ながら歩いていては堤真一ではない!
と、意を決して追い抜いた。
しかも、振り返らなかって顔を見ることも我慢したのだ。
堤真一になるのも大変である。

高校時代の現代国語教師のH崎氏。
我々があまりにも女の子の話に興じていたのが癪(しゃく)に障(さわ)ったのか、こう云った。
「おまえらなぁ、女の尻を追いかける男より、男に追いかけられるような男になれ」
本質はhypocriteだった(と思う)H崎氏にしては至言であった。

高校の一級先輩のS田氏のごとく、後(のち)に“男の<尻>を追いかける男”が出現したのは、歴史の皮肉としか言いようがないが。

2008年7月21日月曜日

NEVER GIVE UP

3連休の最終日、夏本番という天気だ。
自宅の前の体育館跡地は芝生で覆われているが、流石(さすが)に暑すぎて子供も遊んでいない。
蝉(せみ)がいないからか。
いや、最近は蝉を追いかける子供も見かけなくなった。
暑さごときに負けるな、子供たち。

ローテーションから云えば、今日は散髪に行くはずだった。
しかし、今日は行かない。
しばらく行かない。
伸ばす。
まるで禁煙の失敗者のように、髪伸ばしには何度も失敗して、いつも角刈りに戻るが。

才色兼備Nさんの好みの男性は、石黒賢と堤真一との由。
石黒賢?
実写版映画『めぞん一刻』の五代君の役をやったことくらいしか知らない・・・。
堤真一は、先日DVDで観た『ALWAYS 続・三丁目の夕日』での名演が記憶に新しい。
検索してみると、私と同じ兵庫県人ではないか。

今までは真田広之になることを目指してきて、ほぼ達成したので、ここらで方向転換してみようと思う。
勿論、目指すは石黒賢か堤真一だ。
両者の写真を見ると、石黒賢になるよりも、堤真一になるほうがハードルが低そうだ。
かといって、偏向するのではなく、二人の共通点にも気をつけておかねばならない。
眼鏡をかけていない。
よし、ジム以外でのコンタクト復活だ。
目力(めぢから)があるな。
これはクリア。
爽やかな熱血漢。
これくらい、これから身に付ければよろしい。
髪は?
長い。
よし、伸ばそう。

堤真一になると決めたら、新作を見ないと。
映画『クライマーズ・ハイ』
12:20からあるな。
よし行こう。
ジムに行く準備をして家を出た。
今日は、映画を観てからジムに行くことにした。
汗だらだらになりながら、映画館に辿(たど)り着いた。
久々に来たが、毎度ポップコーンの匂いには閉口する。
さて、チケット売り場へ。
“12:20からのクライマーズ・ハイはすべて売り切れました”
下手糞な手書きの張り紙が、先進的な電光掲示板のタイムスケジュールの横で、私を見てぴらぴらと笑っていた。
NEVER GIVE UP...

2008年7月20日日曜日

カイコウケン?

夕方、ふらりと一人で出かけた。
暑いので裸足(はだし)にTOP SIDERもどきのストライパーを履いて、湘南ボオイを気取ってみた。
痛い。
ちょっと歩いただけで痛い。
戻るのは面倒だ、頑張るしかない。
電車に乗って、茅ヶ崎駅で降りる。
目指すは『開高健記念館』だ。
彼がチンギス・ハーンの陵墓を探すことをライフワークにしていたことに興味を持ち、何か参考になることはないか訪ねた次第だ。
ない。
モンゴル関連の資料を展示していた時期もあったそうだが、今日現在では一切見当たらなかった。
館内の案内の人が
「モンゴルで釣をしたときのビデオをご覧になりますか」
と、云ってくれたが、そのNHKスペシャルは既に観たので、その旨告げて丁重にお断りした。

開高健と云えば、昔から読み方にイマイチ確信が持てなかった。
いろいろ調べた結果“カイコウタケシ”だ、との自信はあったのだが、人と喋ると何割かの人が“カイコウケン”と云う。
“カイタカケン”と云う人さえたまにいるが、それは論外だ。
展示室に入ると、開高氏が着ていた背広が展示してあった。
わざと背広の裏地が見えるような細工がしてある。
あっ!イニシャルが!
“K.K.”
カイコウケンか?
自信を失いかけた。
しかし、ベトナムにいる開高氏に宛てた知人からの手紙には“Mr.Takeshi Kaiko”とある。
開高氏がベトナムから日本に居る自分の娘に宛てた手紙には“T.Kaiko”と自署してあった。
背広の謎はよく分からないが、“カイコウケン”と称することもあったのかもしれない。

奥に進むと“書斎”と案内板がある。
書斎に入らせてくれるのか?
進むと書斎方面らしき廊下にはロープが張ってあり、見学路は外へ出る方向だ。
なんや、窓の外から見るんかいな。
思わず開高氏のような口調を思い浮かべる。
“書斎は生前のままです”と注意書きがある。
案外片付いている。
書斎なので机がある。
座椅子があるので、正座か胡坐(あぐら)か、と思ったが、なんとその部分だけ掘り炬燵(こたつ)式になっていた。
正座はもちろん胡坐も苦手な私は、なぜか安心した。

来るときは2kmの道のりをなんとか我慢して歩いたが、帰りには靴擦(ず)れが余りに痛くてバスに乗った。
バスなぞ何年ぶりか。
座席に腰を下ろし、入館した時にパンフレットを貰ったことを思い出し目を落とした。
表紙にはこう書いてある。

    ~茅ヶ崎市~
開  高  健  記  念  館
      THE
KAIKO TAKESHI HOUSE
    Chigasaki

ふふふ。

2008年7月19日土曜日

刺青

昨日“野茂英雄が引退を表明”のニュースが駆け巡った。
新聞各紙も様々なコメントを載せた。
申し合わせたように賞賛記事だが、野茂のプロ野球人としての戦績は勿論のこと、大リーグのドアをこじ開けたチャレンジ精神を考えると真っ当な評価と云うものだ。
中でも印象に残ったコメント。
今朝の読売新聞のコラム『編集手帳』で、米国の作家ジョン・スタインベックの言葉
「天才とは、蝶を追っていつのまにか山頂に登っている少年である」
を引用して、称えている。
野茂は、
「普通は“これで悔いはありません”と言うのでしょうが、私は悔いが残る」
とコメントしている。
『編集手帳』では、スタインベックの言葉を単純に引用して野茂天才説を唱えるのではなく、“頂上からの眺望は眼中になし、少年の目は今も幻の蝶を追っているのだろう”と評している。

最近読んだ記事で、心を抉(えぐ)られるような言葉に出合った。
7月3日付の日経夕刊のインタビュウ記事。
《群れないで生きる》丸山健二さんに聞く
中にはこうある。
~丸山さんは、親しいノンフィクション作家の梯久美子さんが『散るぞ悲しき 硫黄島総指揮官・栗林忠道』で大宅壮一ノンフィクション賞を受賞したときにこう忠告したという。「心の中に刺青(いれずみ)を入れなさい」。創作活動中は名誉・金・出世と無関係で、賞をもらったからといって舞い上がってはいけないと諭したのである。~

思った。
天才たりえない人間が、自らのプリンシプルを堅持しようと思ったら“心の中に刺青を入れ”なければならないのだと。

私にも天才を超えたいと云う矜持(きょうじ)はある。
心の中に刺青を入れるような覚悟はしていないが、名誉・金・出世さらに女性にモテることとも無関係で、賞をもらったわけではないがいつも蝶のように舞い上がっている。

2008年7月18日金曜日

ハートカクテル

心にささくれができるような感覚を久々に味わった。
魅力的な女性と会食をしたあとの、独特の感覚だ。
爽やかな気分のような、後味が悪いような、とにかく日常と違うような、油断するとふと思い出してしまう、気だるい感覚だ。
経験上この感覚は、最低3日は続く。

16日生まれが親睦する“一六会(いちろくかい)”と云う会がある。
今夜はその会合だった。
後輩女子Nさんは8月16日、後輩女子Uさんは7月16日、後輩I君は5月16日、そして私が11月16日生まれだ。
ただ問題は、そんな会の名前を私が勝手につけているだけで、誰もそんな会に組み込まれているという認識がないことだ。
ともあれ第一回“一六会”は、武蔵小山の『釧路食堂』で開催された。
7月5日発売のビッグコミクオリジナルで安くて美味い店と紹介されていたので、早速訪ねてみた次第。
名物のザンギと云われる鳥の唐揚も、ジンギスカンもなかなかの美味で、しかも安かったので満足だ。
とはいえ、特筆すべきは矢張(やは)り、Nさんとの久々の会食だ。

Nさんは“お嫁さんにしたい女性”と云う言い方がぴったりの才色兼備の女性だ。
元祖“お嫁さんにしたい女性”と云えば女優の竹下景子さん。
元運輸大臣の荒船清十郎氏(1907~1980年)が1976年頃のテレビ番組で、司会の竹下景子さんに
「是非うちの息子の嫁に」
と云った言葉が流行語になった。
そういえば、竹下景子もNさんも、トンジョ(東京女子大学)卒だ。

そんなNさんは1980年代の短編漫画不朽の名作『ハートカクテル』から飛び出してきたような、清楚で明るく慎み深い女性だ。
たまに“若さに嫉妬する”という言い方を耳にするが、Nさんに対する感覚は“純粋さに嫉妬する”が近い。
故(ゆえ)にNさんと相対(あいたい)すると気後(きおく)れして、悪く言うとリラックスできない思いがあった。

帰りの電車でのこと。
私の犬の散歩の話から、よく行く海岸の話になり、そこでやっているビーチバレーの話になった。
Nさんも昔、4人制ビーチバレー(って、あるらしい)をやっていたとのことで、中学ではバレーボールをやっていたらしい。
私も中学のときにバレーボールをやっていたこと、その頃はミュンヘンオリンピックで男子バレーが強かったことを話したら、
「猫田を知っていますか?」
と、Nさんは尋ねてきた。
知っているも何も、猫田がセッターをやっていて男子バレーボール黄金期で金メダルを獲ったミュンヘンオリンピックのまさにその時に、私はバレーボール少年だったのだ。
Nさんが生まれる前の出来事だ。
夢中で話した。
猫田の名セッター振りは勿論、エースアタッカー大古のこと、横田が腰痛を堪えるために自転車のチューブを腰に巻きつけて試合に出たこと、“無謀”にも五輪直前に男子バレーチームをテーマにしたアニメ『ミュンヘンへの道』が放映されたこと、東京五輪では女子バレーチームが回転レシーブをやり始めたが、ミュンヘンで男子はフライングレシーブを開発したこと、対ブルガリア戦での奇跡の大逆転のこと、敗者復活の決勝で東ドイツを破って金メダルを獲得したこと。
「じゃ、猫田も活躍したんですね?」
一瞬、猫田に嫉妬したが
「勿論!猫田のトスがなければ、大古や森田や横田のアタックも活きなかった」
と、胸を張った。

あっ。
Nさんと自然に喋っている自分に気づいた。
そうか、自然体でいいのだ。
生(き)のままの、この少年のような純粋な気持ちで喋ればNさんという女性は受け止めてくれるのだ。
ただ、ささくれはあと2、3日は治りそうにない。

2008年7月17日木曜日

汚れた英雄

最近やたらと周りに鬱(うつ)病が多い。
なのでカウンセラーを目指す人も増えているような気がする。
知り合いのシガニー・ウィーバー似の美女Iさんは、アパレル企業を辞めてその道に進み既に活躍しているし、後輩女子Hさんもその手の学校に通っている。
Hさんが、カウンセラーを目指す人のために配布しているらしき小冊子を貸してくれた。
帰りの電車でパラパラ読むと、こんな項が。
“あんなオヤジのようになりたくない”人ほど“あんなオヤジ”のようになってしまうカラクリ。
これはよくある話で、他人事ではない。
解説はこうだ。
要は“ああは絶対なりたくない”と、強く念じているため、いつもそんなことを考えている。
つまりいつもイメージしているのだ。
人はいつもイメージしている姿に近づくものらしい。
処方箋(しょほうせん)はこうだ。
なりたいと思う人、つまり目標人物のことを強くイメージすること、とのこと。

バイクのコーナリングに似ている。
バイクというやつは、ライダーが“見ている”方向に向かう性質がある。
マシンと一体なので、ハンドル操作をする四輪とは違うところだ。
なので、バイクのレースを見ていると分かるが、ライダーはコーナリングのとき、首をグイと曲げてキッとコーナーの出口を見ている。
歌舞伎の見栄のような首の向きだ。
私もモトクロスをやっていたので経験があるが、コーナーで思い切ってマシンを倒してコーナーの出口を睨(にら)みつけると、バイクはそっちへ向ってくれるのだが、恐いと思ってコーナーの外をチラと見てしまうと、たいがいそっちへ吹っ飛ばされる。

やはりどんな時でも、イメージすることは大切なようだ。
では、私は、なりたい人になれたか。
子供の頃は鉄腕アトムになりたかったが、なれなかった。
マジンガーZにもなれなかった。
タイガーマスクにもなれなかった。
真田広之になれたくらいである。
人生は甘くないのである。

じゃ、バイクのコーナリングよろしく、せめて好きな女の子を見続けよう。
恋の成就は叶わなくとも、ストーカーにはなれる。

2008年7月16日水曜日

I STILL BELIEVE

今朝の朝刊に15段(1ページ全面)広告が掲載されていた。
ミュージカル『ミス・サイゴン』だ。

10年前の5月に、某経済団体の訪米調査団に加わった際、スケジュールの最後がニューヨークだったため、1日延泊してゆるりと過ごした。
一人でブロードウェイをブラブラしていると『ミス・サイゴン』の看板が見えたので迷わず劇場に入り、夜の公演を予約した。
S席で65ドルだったと思う。
笑った。
泣いた。
もちろん全編英語で、もちろん字幕なぞなかったにも関わらず、である。
(日本語同時説明ガイドテープの貸出しがあることが、劇場を出るときに分かったが、それを聞いて100%内容を理解しようとするのも無粋と云うもので、矢張り生の声を聴く方がよい)
21年前にもブロードウェイを訪ねて『スターライトエクスプレス』『オーカルカッタ』なぞを観たが、『ミス・サイゴン』は格段に面白かった。
カーテンコールの“演出”が、兎(と)に角(かく)素晴らしい、心憎いのだ。
DJで映画評論家の浜村淳の言い方を借りれば、まさに
“これでもか、これでもか”
と、いう感じで盛り上げて、公演の感動を心に焼き付けてくれるのだ。

あまりによかったので、何年か前にCDを買い求めた。
『Miss Saigon』
2枚組で、ほぼ全編カヴァーされていて、聴いていると瞼(まぶた)に浮かんでくる。
中でも一番好きな歌は“I STILL BELIEVE”だ。
「私の葬式で、出棺のときには是非ともこの曲を流して欲しい」
と、細君に頼んだのだが
「なに考えてんの。あなたのその能天気さとその我儘(わがまま)な性格で、私は苦労に苦労を重ねて私が早く死ぬに決まってるじゃない。娘たちに頼んどきなさいよ」
「なんの。佳人薄命と云うではないか」
と、云っても取り付く島もない。
姫たちに頼むと曲を取り違えられそうで、死んでも死にきれない。

日本公演は帝国劇場で明日から幕が開く。
S席は13,500円か。。。
行きたいなぁ。
行きたいなぁ。
そんなことを考えながら、キッチンで顔を洗っていると、誰かが私のおしりをピシッと叩いた。
石鹸で洗っていたので、目を開けられなかった。
思い浮かぶ容疑者は男子で2名、女子で3名いるので、捜査本部は5秒で解散し迷宮入りした。

2008年7月15日火曜日

役者やのぉ

島国根性って、言葉がある。
何かで読んだが、大昔の日本人は自分たちの国が“島国”とは知らなかったはずだ。
確かに!
では日本人が日本を島国って気付いたのは伊能忠敬以降ではないか。
しかし、地球的に見ると、大陸とて島である。

日経新聞の日曜版は、教養面が充実していて面白い。
一昨日の紙面の『語る』というコラムに英文学者の外山滋比古(とやましげひこ)氏が面白いことを書いていた。
いや、待てよ。
この名前。。どこかで。。
書斎の本棚を調べてみるとやはりあった。
『読み書き話す』という1980年発行の初版本を購入して読んでいた。
最初の方を読むと、ふむふむ、なるほど面白い。
いかんいかん。
買うだけ買って読んでいない本がけっこうあるのに、古本を読み返している時ではない。
将来、悠々自適の生活を送るようになったら、軽井沢の別荘でゆるりと。。。
“悠々自適”と“軽井沢の別荘”を持つのに、宝くじに当たることが条件なのが、ちとキツいが。
いや、3億円当たってもそれは無理か。

コラムの見出しは“日本で独創的思考をつむぐ”。
~外山も「英語を学ぶなら一度は本土の土を踏まなくちゃ」と何度となく説得されたが、今に及ぶまで日本を出たことがない。「百害あって一利なし」との確信があったからだ。「源氏物語の研究者は平安時代に行けるわけではないが、それでも研究はできる」~
その通りである。
島国なんて云う言葉そのものが僻(ひが)み根性だ。
要は創造力なのだ。

かの劇画の最高傑作『博多っ子純情』を生み出した長谷川法世氏は、あるインタビューを受けて、主人公が同作の中でラグビーをやっていたことから、氏も経験あるのでは、と問われて、こう答えたと云う。
「やったことないですよ」
「でも描写が具体的だ」
「じゃ、人殺しのストオリィを上手に書く人は、実際に人を殺したのか」

稀代の天才映画スタア、ブルース・リーは『燃えよドラゴン』で、その溢れる才能を世界に見せつけた。
本作が日本で公開されたときにはブルース・リーはすでにこの世にはいなかったので、いろんな伝説が一人歩きした。
“彼は世界一強い男だったのではないか”の類(たぐい)。
ある映画評論が当を得ていた。
“彼はスクリーンの中で世界一強く見えるように演じて演出した男だ”と云うもの。

私は、人から見ると随分と怠け者に見えるらしい。
しかも、スケベそうにも見えるらしい。
つまり私は天才役者なのだ。

2008年7月14日月曜日

Ca

今朝、後輩女子Tちゃんが近づいてきて私に云った。
「カルシウム持ってません?」
「カルシウム?うーん、、、そうや、ワカメなら持ってるよ」
「ワカメ?乾燥ワカメってこと?」
「そうそう、カルシウムたっぷり、、、多分」
「どうしろって云うの?」
「お湯で戻して食べる」
「あのねぇ・・・」
「あっ、お吸い物がある。それに入れれば?」
「うーん、、、他には?」
「うーん、カルシウムと云われようがマグネシウムと云われようが、いま持ってるのはチョコとキャンディーだけ」
「そっかぁ」
「カルシウムって何に入ってたっけ?」
「例えば、牛乳とか」
「そっかぁ。さすがに牛乳は買い置きしてないなぁ」

そんなわけでランチは外出せずに、コンビニに行って弁当を買い、その足でカルシウムのサプリみたいのなのがないか店内を探した。
、、、ない。
牛乳くらいはあるだろうと思って飲料コーナーに行ったが、セブンイレブンやローソンのようなちゃんとしたコンビニではないので、品揃えが悪く置いてない。
他をウロウロすると、あったあった♪
『かっぱえびせん』
Caたっぷりと書いてある。
意気揚々とオフィスに戻り、Tちゃんにあげた。

数分後、ふと思った。
急にカルシウムが欲しくなるなんて、どういうことだろう。
Tちゃんがカルシウムを所望したのは初めてだ。
そう云えば、カルシウム不足になるとイライラする、とはよく聞く話だ。
そうか!
Tちゃんが近づいてきたので、得意顔で私は云った。
「ひょっとして、なんかイライラしてるんでないの?」
「大きな声で云わないのっ!朝はそれを伝えたかったのっ!」
なんのことはない、私はカルシウムの入った食品の会話をするべきでもなければ、コンビニに行ってカルシウムを調達するべきでもなく、イライラを解消してあげるべきだったのだっ。

気づくのが3時間ほど遅かった。

2008年7月13日日曜日

仮面の告白

三島由紀夫の名作のひとつ『仮面の告白』を読了した。
自伝的小説とのことだが、よくここまで書けたものだと感心した。
要はホモであることのカミングアウト本なのだが、主人公が逞(たくま)しい男の体に欲情する描写は気持ち悪いの一語に尽きる。
しかし、それにもまして悪魔の儀式のように人を傷つけるおどろおどろしい想像シーンもあって、私はこんな本をカバーもつけずに電車で読んでいて変な目で見られていないだろうか、と思わず見回したものだ。
発禁になっていないのが不思議なくらいの本だ。

そんな中でもニヤリとする記述が一箇所だけあった。
主人公は一丁前に園子と謂(い)う女性と恋に落ちている。(ふりをしているのだが)
本作の終わりの方で主人公は園子に接吻(せっぷん)をする。
場所は、長野だったか、とあるゴルフ場の黄色い野菊の草むらだ。
翌日も野菊が踏み荒らされた同じ場所で接吻する。
次の日には主人公は帰京する。
園子は、一人でその場所に行く。
園子は、踏み荒らされた野菊を見る。
ただそれだけのことなのだが、こういう感受性は大好きだ。

もう黴(かび)が生えるくらい随分昔のことだが、、、
さっきまで彼女が部屋にいた痕跡(こんせき)、例えば二人で食べたラーメン鉢が残っている、忘れていった髪留めが無造作に転がっている、メモ用紙に書いた落書き。
そんな“さっきまで彼女がいたという”物的証拠は、なんとも云えないものだ。

2008年7月12日土曜日

復讐

昨夜、駅の自動販売機でお茶を買おうとした。
財布の中を見ると100円玉1枚、50円玉1枚、10円玉2枚。
350mlのお茶は120円だったので20円を投入して、切りがいいので残りの100円分はSuicaで、と思ってかざしたが無反応だ。
融通が利かない奴だ、と思って仕方なく財布からお金をつまんで入れたら入れたのは50円玉だった。
まぁいいか、と思って100円玉を投入してボタンを押した。
するとお釣が出てきたのだが、なんと10円玉5枚が出てきたのだ。
てっきり私が入れた50円玉が返ってくると思ったのだが。
自動販売機は独り言のように呟(つぶや)いた。
「ああ!細かい金が一杯で重かったんや。ちょっとすっきりした」
「お前、ワシのこと融通利かんと思ったやろ?ちょっとした復讐(ふくしゅう)や・・・」

自宅でのトレーニングでは、ダンベルもよく使う。
通信販売で購入したもので、同じ重さのものが2セットある。
けっこう重く、引越しの時など引越し屋のにーちゃん(兄ではない)は、少し嫌な顔をする。
私もこれを使うときは結構気合を入れる。
「うんし、うんし!」
と、持ち上げて、
「さすがに12.5kgは重いなぁ」
と、長年思っていた。
ある日、気まぐれに体重計に乗せて驚いた。
15kg?!
なんと、長年勘違いしていたのだ。
不思議なもので、12.5kgだと思っていたダンベルが15kgだと思うと、ダンベルが急に前より重くなったような気がした。
ダンベルの復讐のように思えて仕方がない。
“彼ら”には、何も悪いことはした覚えがないのだが。

“復讐”という言葉を含む諺(ことわざ)は、欧米には意外とある。
Revenge is a dish that can be eaten cold.
SPACE ALCによると
“復讐は、冷めても食べられる料理。/復讐は、何時までたっても果たしたいもの。”とのこと。
同じような言い回しで、こんなのを何かで読んだことがある。
イタリアの諺だったと思うが、
“復讐という料理は、冷めた頃が一番美味しい”
さすがマフィアの国、というか、なかなかに含蓄(がんちく)のある諺だと思う。

これを聞くと、長い付き合いの人間ほど潜在的には恐ろしいと謂(い)うことになる。
小学校時代の友人で付き合いのある人間はいない。
高校時代、大学時代が要注意か。
いや、待てよ。
来年3月で、結婚20年だ・・・。

2008年7月11日金曜日

1 year or less

新聞記事によると、セルフレジが普及しつつあるとか。
6年ほど前にハワイのアウトレット、ワイケレショッピングセンターで初体験した。
どんなシステムか忘れてしまったが、案外便利やないか、という快感の記憶だけはある。
それ以前、日本にまだセルフスタンドがなかった頃、レンタカーを満タン返しにする時に経験してみたが、なかなかに合理的なものだと思った。
ただ、なんでもかんでも客にやらせるのか、と腑(ふ)に落ちない気持ちもある。

日本で客にやらせる商売と云えば、焼肉や大阪風お好み焼きか。
あと昔は駄菓子屋の軒下に自動綿菓子機なるものがあった。
10円入れると自動的にざらめが投入され、出てくる綿菓子を備え付けの割り箸でクルクルと巻いていくのだ。
衛生面で問題もあるのだろう、最近は見かけない。

自分のテーブルで焼くようなお好み焼き屋でも、面倒くさいので
「焼いてきてんか」
と云うことが多い。
ただ、店員に任せると下手な焼き方をされて後悔することもある。

ハワイのスーパーマーケットでいいなと思ったのはこんなレジがあることだ。(確か本土にもある)
“Express Lane 10 Items or Less”
つまり10品以下の買い物の人専用レジだ。
これは優れものサービスだ、と思った。
売上が伸びないと悩むスーパーマーケットが多い中、日本にこのサービスがないのが不思議である。
ついでに、こんなことを私に謳(うた)ってくれる美人が次々と現れてほしいものだ。
“交際希望、 1 year or less”

2008年7月10日木曜日

それでも、僕は・・・

午後のひととき、後輩女子Tがいたので話しかけた。
私が生まれるよりも20年と1ヶ月だけ遅い1979年12月生まれ、たまに二人でランチにも行く仲良しだ。
「やぁ!」
「・・・はい」
「あれっ?怒ってる?」
「そういうこと言うから怒ってなくても腹が立ってくるんですよ」
「いや、まぁ。ところで最近おぬしのことをたまに考えてるんやけどね」
「・・・」
「いや、まぁ、若い若いと思ってたけど、考えたらおぬしも来年は30よなぁ」
「それがどうしたんですか」
「いや、まぁ、そうなると、どんどん私の年齢に近づいてくるなぁと思ったら嬉しくてね」
「自分の年齢はそのままだと思ってるんですか」
「いや、まぁ。けどな、私が40歳ならおぬしは20歳で、比率は50%やん?けど、来年になったら、私は50になるが、おぬしは30で60%やん?ほら、近づいてるやん?」
「ものは云いようですけど、絶対に追いつくことはありませんから」
「いや、まぁ、けど私が1,370歳になったら、おぬしは1,350歳やん?そんなの誤差みたいなもんやん?」
「あの、私忙しいから、もういいですか」

夜に、私が帰宅しようとしたら、Tがチラッとこちらを見るのが分かった。
「なんだよ、私は働いてるのにお前はもう帰るのか」
と、言いたげだ。
で、目を合わそうと思ったら、視線を逸(そ)らされた。
なので、声を掛けた。
「じゃ!よいお年を~!」
「また、年の話かぁ?!」

本当に仲良しなのである。

本当は仲良しなのである。

それでも仲良しなのである。

2008年7月9日水曜日

フルーツ牛乳とチキンライス

『ALWAYS 続・三丁目の夕日』のDVDを借りてきて観た。
前作同様、もうボロボロに泣きながら観た。(勿論、書斎で一人でこっそりとだ)
一平の家に預けられていた一平の“はとこ”の美加が父の元に帰る時、薬師丸ひろ子扮する一平の母に
「お母さん」
と言った時には、不覚にも
「あぅっ」
と、嗚咽(おえつ)を上げてしまった。
みな、貧しくとも(貧しいという実感はなかったと思うが)幸せだった、としみじみと感じ入った。

1958年営業開始の東京タワー。
前作では未完成だったが、本作では完成していた。
東京タワーは子供の頃からの憧れだった。
“東京=東京タワー”の感さえあった。
1980年に大学に入学して上京、横浜に住んだので行こうと思えばいつでも行けたが、いつでも行けると思い、行かなかった。
初めて登ったのは、東京タワーも42歳になった確か2000年だったか。
エレベーター含めて全体的な設備の古臭さがまたなんともよかった。
来場者は“おのぼりさん”という絆で結ばれていることで、連帯感と安心感が生まれる。

地上階にある老舗『タワーレストラン』では昭和40年頃からの味を守り続けているチキンライスがある、と何かで読み、数年前にわざわざ食べに行ったことがある。
感動した。
あの船底の形をした型でパカンと皿に盛った伝統的な味のチキンライス。
“稜線”には数個のグリーンピースが設(しつら)えてあった。
あのあと数回訪問したが、、、メニューから消えていた。
また一つ昭和が消えた思いだ。

本作品では、小雪扮するヒロミが乗る特急こだま号の再現も話題になった。
こだま号と云えば、あの伝統あるフルーツ牛乳のような色が思い浮かぶ。
1958年11月11日に誕生したこだま号は、1964年9月30日、東海道新幹線開業に伴う東京・大阪間の在来線特急廃止によってフルーツ牛乳の『こだま』は役割を終え、1964年10月1日から新幹線で引き継いだ、と記録にはある。
小学校の修学旅行は京都と奈良だった。
その時のバスガイドさんが、クイズを出題した。
「新幹線のひかり号とこだま号は、どうやって見分けるでしょうか?」
われわれ児童はキョトンとなった。
問題の意味が判らないのだ。
誰かが言った。
「色で!」
みな、当然だと思った。
愚問だ、という空気がバスに流れた。
バスガイドは
「ざんねーん。色は同じです。ひかり号は16輌で、こだま号は12輌です。ねっ、これですぐ分かりますね」
みな釈然としていなかった。
みんなのこだま号は、依然フルーツ牛乳だったのだ。
小学校の修学旅行は1971年、こだまが“消えて”からもう7年も経っていたことになる。

1971年といえば大阪で万国博覧会が開催された翌年で、もうモノが溢れているように思っていたが、やはり貧しかったのだ。
それでも心は満たされていた。
よほどの事情でもなければ、新幹線に乗る機会なぞ、みな無かったのだ。
いや、待てよ。
赤穂市立尾崎小学校の児童があまりにも田舎者だったのかもしれない。
今もって謎である。

2008年7月8日火曜日

サブウェイ・パニック

10時頃に三田から品川に歩いた。
最初は小雨だったので軽い気持ちで歩き始めたが、途中で私が雨男であることを思い出した。
ものすごい雨になって、大き目の傘をさしていたが、膝から下を水槽に浸したような状態になった。
まったく。
こんなひどい雨は、上海で体験した“これぞ大陸!”の雨以来だ。
都営浅草線泉岳寺駅への入り口が見えた。
看板があり“Subway”と書いてある。

Subway?
これって普通名詞だったか?
ALCの英辞郎 on the WEBに“地下鉄”と入力すると次のように出てくる。
U Bahn〈ドイツ語〉 // metro // subterranean railway // subway // tube railway〈主に英〉 // tube〈英〉 // underground rail system // underground railway [railroad] // underground〈英〉
高校の英語の授業では“地下鉄”のことを確か“subway。英国ではtube”と習った。
Subwayって元々はニューヨークの地下鉄の固有名詞だったのではないか?なぞと思う。
サンフランシスコでは、当地に行くたびに活用したが、走ってるのはSubwayではなく、Bay Area Rapid Transit 略してBART(バート)だ。

あるテレビ番組で、日本の温泉を外人観光客にPRしようという企画が組まれていた。
温泉旅館などでは“温泉”をキチンと英語で表記しないと不親切だ、ということになり、館内に“Hot spring”や“Spa”などと記された札が設置されていた。
しかし、ある外人のPR専門家がこれに異を唱えた。
表示は“ONSEN”にすべきだ、と。
なるほど、である。
温泉は温泉なのである。
温泉だからこそ、湯に入ったらあまりの気持ちよさに
「ん!ん!んぁ~っ!」
と、呻(うめ)いてしまうが、名前が“Hot spring”や“Spa”では、そんな気にならない。
餃子ライスを頼んだら、餃子にサフランライスが付いてくるようなものだ。
風呂に入った後の卓球や、お土産屋さん巡り、スマートボールは、温泉街にのみ許されるエンターテイメントだ。
露天風呂で雪を見る風情は、やはり“ONSEN”に限る。
外人とはいえ、さすがPR専門家、やるじゃないか。

このさい地下鉄も胸を張って“CHIKATETSU”と表記してもらいたい。

2008年7月7日月曜日

豚シャブ

久々に後輩女子Tちゃんと喋った。
ちょこちょこは喋るのだが、今日はガッツリと、そう、ニラ玉炒めに餃子とライス大盛りを食べた気分だ。

Tちゃんのところへ行くと珍しくチワワのような目で
「おなか、すいた~」(今は三島由紀夫を読んでいるので自虐的にこう聞こえる「おなかがすきましたわ」)
私は応えた。
「頂き物のおかきがあったな」
「食べる~」(同上「いただくわ」)
いつもの大人びた雰囲気がなぜか甘えんぼモードなので異常に照れる。
なので「食べる~」の言葉に助けられたような気分で、その場を離れデスクにおかきを取りに行く。

話を続けながらおかきをバリバリと食べるTちゃんの姿は、『Dr.スランプ アラレちゃん』のガッちゃんのようだ。
「ねぇ、チョコ食べたい」(同上「チョコが食べたくてよ」)
Tちゃんは私がMEIJI MILK CHOCOLATEを買い置きしているのを知っている。
かわいい。
すぐに取りに行く。
なんのことはない、チョコを取りに行くのは、動悸(どうき)を抑える息継ぎ井戸みたいなものだ。

帰りに偶然エレベータホールでTちゃんと一緒になった。
照れたが一緒に歩く。
愛くるしい顔を見ると息苦しくなるので、ビジネスの話で誤魔化(ごまか)す。
「美味しい豚シャブの店があるの。今度行きましょうか」(同上「美味しい豚シャブのお店があるのよ。行きませんこと」)
「喜んで」
Tちゃんのその類(たぐい)のお誘いに対して
「じゃ、早速スケジュール決めましょう」
は、野暮と云うもの。
Tちゃんにとっては、鼻唄程度だ。

それでも愉しかった。
久々の充実感。
何ヶ月ぶりだろう。

空を見上げた。
今日は七夕。

2008年7月6日日曜日

明日は七夕である。
織姫(ヴェガ)と彦星(アルタイル)は、明日の逢瀬(おうせ)を楽しみにしている頃か。
とはいえ実際の両者の距離は16光年だ。
簡単に会える距離ではない。

時々、宇宙の広さを考えてみる。
宇宙は広い、と云う。
しかし、宇宙にも一定の広さがあって、その宇宙は膨張していると云う。
では、その膨張している部分の外はどうなっているのか。
その外にも別の世界があったら、そのまた外の世界はそうなっているのか。
考えても際限がない。
∞(無限大)は、こんなときに使う記号だろう。

あと一つ使える場所がある。
合わせ鏡だ。
どこまで見えるのか。
これも理論的には無限大だ。
テレビカメラでモニター画面を撮影して見えている画像も、テレビ画面が連なってこれも理論的には無限大だが、解像度から云って限界があると考えたい。

仮に宇宙を有限大とする。
そして“その”宇宙は膨張しているというのが定説だ。(まぁ許してやろう)
そして地球から離れた距離にいくほど、膨張の速度は速いと云う。
ある地点から“外”は、光の速度を超えて膨張していると云う。
なので、その地点から外の星は、存在しているにも拘(かかわ)らず地球から観測することは出来ない。
観測するには光として捉(とら)えなければならないからである。
その光よりも速く離れて行っているのだから、これは如何(いかん)ともしがたい。

『黒の舟唄』という歌がある。
歌い始めはこうだ。
~男と女の間には、深くて暗い川がある~
天の川だ、暗くて深い川だと、男と女の間には、いつも川が流れているものか。
そして男女は幾何級数的に離れていくときがある。
その速度は、ときめくことさえ許さなくなる。

だから七夕の逢瀬は祝福してやろうじゃないか。

2008年7月5日土曜日

みゆき通り

金曜の零時を過ぎてからやるテレビ番組『爆笑問題の検索ちゃん』。
金曜の夜は大抵夜更かしするので、チャンネルをクルクルとしていると、なぜか目にとまり見ることが多い。
司会の小池栄子の魅力に負けてチャンネルを動かせなくなることも理由だと思うが。
昨夜(厳密には今日)の放映の中のトークで
「頭の中は今のままで中学生くらいに戻りたい」
「そうだよ!それならあの時は!」
と、盛り上がっていた。

高校時代の友人と会うと、よくこの手の話で盛り上がる。
「嗚呼、この汚れた心のまま、あの頃に戻りたい」
「おお!そやのぉ!」
「ほんまに初心(うぶ)やったのぉ」
「惜しいことをした」
「何がやねん?」
「いや、いろいろあるやろ」
「そやのぉ」
「ほんま、あの頃に戻れんかのぉ」
「そやのぉ」
「もう無茶苦茶したるのにのぉ」
「何がやねん?」
まことに無意味な会話である。

とはいえ、時々当時を思い出して臍(ほぞ)を噬(か)むことがある。
ある日、全然覚えのない女の子から自宅に電話がかかってきたことがある。
「あの、、、私のこと知ってます?」
「知ってるわけないやん」
「毎朝、新興書房(姫路駅前)の前で見てるんですけど」
「いや、わからんなぁ」
「付き合ってる人、います?」
「おらんけど、好きな人(愛しのS田さんである)がいるので」
と、冷たくあしらった。
なんと愚かな私であろうか。

学校から姫路駅へ向かう途中の商店街『みゆき通り』を歩いていたときのこと。
見知らぬ女学生数人から話しかけられた。
「あの、私たち代理なんですけど、、、いま付き合ってる人いますか?」
「えっ?!おらんけど・・・(S田さんが好きやしなぁ)」
「そうですか♪」
少女たちは嬉々として立ち去ったが、その後、音沙汰はなかった。
なぜ、あのとき積極的に会話をつなごうとしなかったのか、いまもって悔やまれる。

とはいえ、中年になってから、
「嗚呼!なんで“功”を焦ってあんなことをしてしまったのか?高校時代の純真さがカケラでも残っていれば、あわよくば付き合えたかもしれないのに」
と、後悔したことも少なくない。

2008年7月4日金曜日

カワハギ

不本意にも仕事で遅くなってしまい10時過ぎ、ひとりでふらりと新橋『弥助鮨』へ。
上にぎりとお銚子を頼み、お通しを入れて〆て2,625円。
鮨屋にしては細かい勘定だが、明朗会計と云うことか。

以前、あるテレビ番組でこんな実験をやっていた。
すし屋の値段のつけ方は、客によって変わるのかという実験。
助平そうなおっさんが若い女性を伴い頼む場合と、貧乏そうなカップルが頼む場合では、同じ注文(時間差で、頼む順番も変えてバレないようにしていた)をしても、助平おやじの方が高かった。
すし屋はそれでいいと思う。
もし、そんな野暮なことで“査察”がはいったとしても、
「いやいや、ネタの厚みが違いますから」
なんて、いくらでも云える世界である。

まぁもしそうなら私の玉子焼きは厚めに切ってもらいたいものだ。
弥助鮨の玉子焼きはちゃんと自分の店で焼いているようで、頗(すこぶ)る美味い。
やがて男女三人ずつの六人組がガヤガヤと入ってきた。
そのうちの女性が陽気そうな声で
「違うわいね!」
「やっとるぞいね!」
「そやがいね!」
と金沢弁丸出し!
懐かしい。

1991年から1993年まで2年間だけ金沢で暮らしたことがある。
なんでも人口一人当たりのスナックの数が日本一多い華やかな街らしい。
それでいてスナックの女性がみな優しい。(当たり前か)
『スナック律子』のママ。
どらえもんみたいに愛嬌のある顔で、面白かった。
吉田拓郎の曲と同じ名前と云うだけでフラリと入ってみた『御伽草子』のママは私と同い年くらいか。
素人っぽくも、色っぽかった。
飲食店が多く入るビルでエレベーターに乗っていたら、見知らぬスナックのおねーちゃん(姉ではない)が乗ってきて“ひし!”と抱きしめられて、おそらく自分が勤務する店の階に着くと何事もなかったように降りていって、唖然(あぜん)としたこともあった。
ニヒルで魅力的な顔に邂逅(かいこう)し、瞬時に母性本能をくすぐられたのだと思う。

金沢駅近くの六枚の交差点のところにある『冨久寿司』は美味かった。
肝とともに供されるカワハギの刺身、肝をつぶしてポン酢に入れて食したら、その美味さに涙がちょちょ切れたものだ。
ここも玉子焼きを丁寧に焼いていたが、味付けが甘かった。
一度、甘さを抑えてくれるよう頼んだら、頑固おやじは
「玉子焼きはオンナ子供の食べ物だから」
と、取り合わなかった。
だが今でも繁盛していると思う。
金沢は、生まれ育った赤穂、予備校で通った神戸、大学時代を過ごした横浜に加えて第四のふるさとだ。
再訪したいものである。

ふるさとの訛りなつかし停車場の
人ごみの中にそを聴きにゆく   
石川啄木

2008年7月3日木曜日

亀井一成さん

~智恵子は東京に空がないと言ふ~
『智恵子抄』の中の一節だ。

私はYさんに云った。
「北海道には梅雨がない」
「ええ~っ?!本当ですかぁ?!」
Yさんのことだ、知っていたのに驚いてくれた可能性がある。
しかも目をまん丸にしてだ。

Yさんとは夕方偶然に道で会った。
彼女は、神奈川県内で笑顔の美しい女性10本指に入るアラサーだ。
10分ほど立ち話したろうか。
なぜか梅雨の話になった。
そこで出たのが上記の会話だ。

「北海道にはゴキブリがいない」
この話にも驚いてくれた。
最近は、ゴキブリに寒さへの耐性が備わってきたのか、青函トンネルでアクセスが容易になったせいなのか、札幌市内では生息していると聞いたことがある。
ついでに使い古した薀蓄(うんちく)も調子に乗って披露する。
「ゴキブリの語源は“御器被(ごきかぶ)り”でね」
「へぇ、でも梅雨となんの関係があるんすか?」
「あ、いや・・・」

やがて結婚観の話になる。
短時間で次々と話題が移る。
これは私が愉しんでいるしるしだ。
「女性である程度年が行っても結婚しない人がいるけど、そういう人を強い女性だとか、寂しくないですか、と云うのはおかしいかもしれない。案外そういう人は一人でいることが好きなのかもしれない。結婚できないのではなく、一人でいることが心地よいのかもしれないよ」
先週金曜日で34歳になり、いまだ独身を謳歌しているYさんだ。
私の好感度を上げようと狙った発言だったが、Yさんはこう云った。
「ええ~っ!そんなの寂しい!!やっぱり好きな人と結婚して、子供作ることが幸せですよぉ」
玉砕した。

お風呂でその会話を思い出していると、亀井一成(いっせい)さんが思い浮かんだ。
神戸市立王子動物公園の飼育係で、確か日本で初めてチンパンジーの人工飼育に成功され『ゾウさんの遺言』『僕はチンパンジーと話ができる』などの著書がある有名人だ。
昭和54年頃か、高校同級生K橋と二人とも二浪中にもかかわらず王子動物園に行ったら、亀井さんが普通の飼育係の格好でバケツを持って歩いてきて二人とも絶句した記憶がある。
有名人だから、もう少し有名人然としていてくれたら話しかけもできたかもしれないのに、あまりにも普通で虚を衝かれた形で見送っただけだ。
話しかけとけばよかったなぁ、と今もって悔やまれる。

そんな亀井さんの朝日放送の番組の中での伝説のスピーチ。
「なんで動物が芸せなあかんのや。あのねぇ動物に芸させようと思ったらねぇ、ギューと痛くせな動物はゆうこときかんのですよ。そんなことして芸を教えるわけですよ。動物はねぇ、ほんまは生まれたとこで暮らしたかったんです。それが無理やり動物園に連れてきてるんです。人に見せるためにね。僕はなるべく生まれた土地に近い形にして、そこに動物がおるのを見てもらいたいと思ってるんです。それで動物が大きなったら、ちゃんと連れ合いを見つけてね、ほんで子供を儲(もう)けさしてやることが、人間が最低せなあかんことやと思います」
だいたい、こんな内容だったと思う。
当時は、象に曲芸をさせたり、園内を走る汽車に猿を縛り付けて運転士のようにさせたりして、話題作りをする動物園が少なくなかった。
そんな時代での発言だ。

さて、Yさんと動物園に行って亀井さんの話をする妄想でもしながら寝るとしよう。
どこの動物園がいいだろう。
関東では、多摩動物公園か。
いや、ズーラシアに行ったことがないので、ズーラシアにしようか。
・・・行ったことないので、妄想できない。
以前行ったLA ZOOか、HONOLULU ZOOなどは、海外旅行込みなだけに妄想が膨らむな。
いや、しかし、、、

私の財布には金がない。

2008年7月2日水曜日

ドナー登録

疲れて電車に乗り込んだときに、空(あ)いている席がないと、嘆息(たんそく)したくなる。
疲れていなくても、遠距離通勤者にとって電車は恰好(かっこう)の読書スペースなので、出来れば座りたい。
空(す)いているのにキッチリ席が埋まっていると、見回して
「お前は次で降りるのか?どこで降りるのじゃ?」
と、訊きたくなる。
所謂(いわゆる)フォーク並びができないのだから、次の駅でドッと乗ってこられると、先に電車に乗り込んでいたアドヴァンテージは忽(たちま)ち失われてしまう。

逆にうまく座れたときも、座りたいモードギンギンのサラリーマンが、タタタと早足で私の前の吊り革を確保するときがある。
私は、
「あーあ、私は遠距離通勤なのだよ。君はまだまだ甘いな」
と、心の中で嘯(うそぶ)く。
根(ね)が善良そうな人だと、わざと文庫本を取り出して“私はまだまだですよ”という信号を送ってあげるときもあるが、私に対して
「早く降りろよ」
と、目でメッセージを送る輩(やから)には、降りないときでも駅が近づくと
「さぁてと。。。」
と、云う嘘のメッセージを発し、読んでいた新聞などを鞄(かばん)に仕舞い、期待させる。
相手が
「やれやれ、やっとこいつ降りるのか」
と、云う安堵(あんど)の表情を見せたのを見計らい、徐(おもむろ)に分厚い単行本を取り出す。
安堵から落胆への移行が私に伝わってくる。
そんな悪戯(いたずら)は、たまにしかしないが。

最近はSuicaシステムなど、電子データが組み込まれた定期券が普及してきた。
そのうち切符もそうなるだろう。
一人一人の下車駅は判らないにしても、一人一人が電車に乗っている区間データはあるわけだ。
それを電車内で読み取るシステムと、その情報を提供するサービスがあったら便利だと思う。
「あっ、このサラリーマンは東京・大磯の定期か。随分遠いな」
「おっ、この学生は品川・川崎やん?よしよし」
と、その席の前に立っていれば、川崎で座れる確率が高いというわけだ。

ただ
“この人は○○駅で降りたところに住んでいるようだ”
“この人の勤務先は○○駅で降りていくのか”
などの情報を開示してしまうことになるが、下車駅から乗り換えする場合もある。
また、その人が降りるときには、その駅までだ、ということはそのときには目で見て分かるのだ。
だから、この程度の情報開示なら構わないのではないだろうか。

とはいえ、心理的に抵抗のある人も多いだろう。
そういう場合は、定期券や切符を買う時に、“開示してもかまいませんよ”と、ボタンひとつでの申告制にすればいい。
そう、下車駅のドナー登録制度だ。

私は屹度(きつと)申告する。
遠距離通勤と分かり、“ギンギン”の人が寄ってこなくなる。

2008年7月1日火曜日

止ん事無し

今夜は、10年前の某経済団体の訪米ミッションでの同志4人が白金台の『高輪荘』に集った。
某経済団体Iさんの本部長昇格祝いでもある。
泉岳寺から18:11の電車に乗り18:13に高輪台で降りて、きょろきょろしていると、品川発、世界のS社のIさんが声を掛けてきた。
Iさんは城山三郎の小説にもなり、財界総理とも云われたI氏の孫で、かなり由緒正しい家柄だ。
二人で交番で道を訊き、目的地に向かう。
5分ほどで着く。
おお、都会の喧騒を避けるようなこの建物、只者ではない。
訊くと昭和6年の建物で、登録有形文化財とのこと、なるほろ。
昔からモーターで定評があり、金曜の夜8時のプロレスの時に、傍若無人な外人レスラーが投げ散らかした花束を片付けるのに使われた電気掃除機『風神』のM電機のMさんの仕切りで、この店を使えることになった。
素晴らしい幹事だ。

ほどなく4人が集まり、宴が始まった。
和やかだ。
本当に和やかな会食だ。
料理は美味いし、会話も愉しい。
S社Iさん、一般人の物差しでは傍若無人、ぞんざい、木で鼻をくくるなどの表現が思い浮かぶ人であるが、なんというか育ちが良すぎる分、浮世離れしており、それが手伝うのかなんともいえず許容できてしまう。
40歳と若いのに不思議な人物だ。
I氏、スポーツクラブでインストラクターから会員中最下位と云われてしまうくらい体が硬いらしい。
I氏、努力しても柔らかくならないとの由。
私と同じじゃないか。

そうか、やんごとない(註:身分などが高い)血筋は体が硬いのだ。
そりゃそうだ。
体を捻(ひね)ってモノを取る習慣なぞ何千年もなかったのだから、体も硬くなると云うものだ。
私の体が硬い理由が、思わぬところで氷解した。

しかし、仮に私がやんごとない血筋の人間だとしても、この1.3畳の書斎で何を取るにも体を捻るだけでよいという事実も、これまたやんごとない(註:やむをえない)というものだ。