2008年1月31日木曜日

牛歩戦術

私はお酒が嫌いなほうではない。
しかし体のことも考えて2006年の春あたりから酒や牛肉・豚肉は月に3回程度に抑えるようにした。
だから基本的に飲み会は断わっている。
飲みたいときは、こちらから指名することにしている。
すると嫌なヤツと飲まなくて済むという効用がある。
とはいえ、義理で行かねばならない飲み会もある。
そういう会に限って、酒を酌み交わすには人生の無駄とも思える輩(やから)がいる。
だから酒は飲まない。
さすがに
「俺の酒が飲めないのか?」
なぞと前時代的な発言は廃れたが、それでも同じようなプレッシャーをかけてくる者はいるものだ。

自宅への道すがら妙案を思いついた。
「バイクで帰るので飲めない」
と言うのだ。

これだけ飲酒運転に厳しい世の中であるから、それは金科玉条になる。
ただ電車を降りてから自宅までの“ドア・トゥ・ドア”の時間を計測したことがあるが8分である。
「バイクで帰る」
と言うと私は嘘つきになる。

そうだ牛歩で帰ることを想定すれば、自宅まではおそらく30分はかかるだろう。
それを徒歩での家までの時間と考えればいいのだ。

しかしバイクがないのに
「バイクで帰る」
と言うと私は嘘つきなる。

そうだ、私の靴をバイクと呼べばいいのだ。
靴をバイクと呼ぼうと、上着を長澤まさみと呼ぼうと私の勝手である。

だから今日も寒い中、遠い道のりをバイクに乗って長澤まさみを後ろに乗せて帰ってきた。

2008年1月30日水曜日

Big Wednesday

今朝通勤電車に乗っていて思った。
電車とはつくづく便利なものである。
もし江戸時代のように歩いて出社するとしたら大変だ。

湘南から品川まで一泊二日くらいで行けるのだろうか?
一泊は、やはり戸塚宿あたりだろうか?
それでもかなりしんどそうである。
雨など降ろうものなら大変だ。
雪なら・・・恐ろしい。

週休二日はちゃんと欲しいので、月曜に自宅を出立したら、品川宿には火曜の夜に入ることになるので、出社は水曜日である。
そして木曜日の朝には自宅に向かって出立しなければならないので、出勤は水曜日だけということになる。

戸塚宿は中間地点なので、旅籠(はたご)では芸者あげて楽したいものだ。
品川に着いたらまた馴染みの芸者も呼ばないと恨まれる。
けっこう忙しくなりそうである。
せっかく江戸まで行くのだから、後学のために吉原くらい行っておくのが情(じょう)というものであろう。
ついでに仮名手本忠臣蔵も観劇しておくのが、播州の人間の務めというもの。
水曜の務めは大変だが、花のお江戸で働くからには我慢しよう。

そうだ!できれば交通手段に馬を準備してくれれば楽である。
いや、それだと早く着き過ぎるから駕籠(かご)でよかろう。
いやいや、駕籠だとゆっくり本も読めそうにない。
ゆっくり動く自動車、運転手付きがいいかもしれない。
シャンパンはいつも積んでおいてもらわないとこまる。
DVDも見られるようにしてもらおう。
行き帰りに随行する秘書はハセキョーとまで贅沢なことは言わないが、ハセキョーのそっくりさんで我慢しよう。

電車とはつくづく不便なものである。

2008年1月29日火曜日

鈴木クンと佐藤クン

今朝の日経新聞のどこかの企業広告に苗字ランキングみたいなのが出ていた。

依然として「佐藤」姓が最も多く、2位の「鈴木」姓を抑えている。

かつては「鈴木」姓が首位を誇っていたが、昭和50年頃に「佐藤」姓が逆転した。

それを知らせてくれたのは友人の佐藤クンだった。

2008年1月28日月曜日

冬、来たりなば

他愛もないことを覚えていることがままある。

予備校時代に事務のおねーさま(姉ではない)O津さんからもらった年賀状にはこう記されていた。

冬来たりなば、春遠からじ

おそらく生徒には同じ文章なのだろうが(もし違って、他の男には♡など付いていたら、その男は許せないが)、浪人生にとってこれほど心に響く言葉はそうあるまい。
ましてやO津さんは女優の中田喜子似(知らないか・・)の才媛だったのだから、プラシーボ効果(“これはとてもよく効く薬で”などと嘘を言って飲ませて効果が出ること)も真っ青である。

早いもので来春で予備校を卒業(というのか)して30年になる。
今年の年賀状でも“30周年同窓会(というのか)やるよ!”と予備校時代の同級生(というのか)には宣言した。
25周年の時と同じく幹事をやらざるを得まい。
前回の25周年はO津さんがスキーとかで招聘には失敗したが、25年振りに集まったというのに男どもは
「なんでO津さん来てないの?」
と、私の存在をまるで無視して目を泳がせていた。
わざわざ東京から神戸まで駆けつけて幹事をしたというに、幹事の資質さえ疑っていた節がある。

次回はそのあたり万全を期さねばならない。
みんなの(男だけだが)浪人時代の甘酸っぱい思い出のためにも。

ちなみにO津さんから年賀状をもらったその年、けっきょく私から春は遠のき、もう一回冬を越すことになったのだった。

2008年1月27日日曜日

モトカレと呼ばれて

昔の恋人(男性)のことを元カレという単語で聞くようになって久しい。
簡潔でいいと思うが、相手が女性の場合は元カノジョでしまりがないと思っていたら、元カノと言うらしい。
元カレと対照させれば元カノも意味が判るが、元カノそれだけでは分かりにくい語感であるが、どちらもあるのだから、まぁいいか。

前に首相や社長だった人などの役職も元をつけるが、直近まで首相や社長だった場合は元ではなく前(ぜん)である。
ということは、昔の彼女に元カレと呼ばれる時は、自分が“引き継いだ”男はさらに誰かに引き継いだか、あるいはもっと、ということになるのだろうか。
つまり前カレ、この場合はゼンカレではなくマエカレの方が、語呂がいいだろうが、そのマエカレは、マエカノにマエカレの次の男からまた新たな恋人ができたときに、やっとモトカレの“称号”が得られるのではないだろうか。
まぁ、好いた惚れたでそんな厳密に言っても詮無(せんな)いこと。
要は以前の恋人はすべて「元」なのである。

「この方をどなたと心得る?!先の副将軍水戸光圀公なるぞ!」
水戸黄門のラストシーンには欠かせない有名な台詞である。
この“先の”は、“前の”という意味であるから、先カレや先カノと応用できるのではないか。
ただ先カレは先枯れみたいで、未来がない響きが嫌なので却下したい。
先の副将軍って英語で言うと“Former vice emperor”かなぁ、などと考えながら辞書を調べていると“以前の恋人”には“ex-lover”なる表現があった。
あと出てきたのが“We are exes.”で、“私たちは、以前は夫婦[恋人同士]だった(=私たちはもう別れた仲だ)”ということで、これは決まり文句のようだ。

それにしても元カレという言い方は、そもそも次(ツギ)カレができることが前提になっている響きがある。
いかにも現代風ということか。
その点、“ムカシノヒト”という言い方は、確かに過去の人にはなっているのだが、それは別れが想定外だったような、あるいは本当は別れたくなかったのに、という響きがある。
だから、イマカレにモトカレの話をするかもしれないが、イマノヒトにはムカシノヒトの話はしない気がする。

図らずもムカシノヒトに再会したときに、たとえイマノヒトがそばにいたとして、ムカシのことを一瞬思い出して目と目で判り合ってそれでよし、とすれば、それこそ大人の究極のロマンチシズムとも云ふものである。

2008年1月26日土曜日

寝溜め

目覚まし時計をセットしない週末の睡眠は無上の喜びである。

昨夜は若干酩酊気味で帰宅したので、だらだらとして就寝が3時、今朝11時頃に一度トイレで目覚めて、あと30分ばかりうたた寝するかとベッドに戻って、起きたら2時半だった。
医学的に寝溜(ねだ)めはできないと聞いたことがあるが、ウソである。
寝溜めはできるし、寝不足を取り戻すこともできる。

昨夜は久しぶりに後輩O君と一杯飲(や)りに繰り出した。
O君とは特に趣味が同じでもなく、価値観が近いわけでもなく、しかも私よりも少しだけもてる男にもかかわらず、うだうだと過ごしていても苦にならず、後味もよい。
こういうのをウマが合うとでも言うのだろう。
O君は私と同じくルーツがモンゴルで、モンゴリアンネームをサンパック・ガーンと云う。
ちなみに私のモンゴリアンネームはラフカディオ・ハーンで、クリスチャンネームはヨーゼフ・バブチストである。

O君は世情に聡(さと)い。
なので私がどこからか仕入れてきた美談や醜聞を話すと、
「いや実はその話には・・・」
と、その裏話を教えてくれる。
美談だと思っていたことが、とんでもない食わせ物だったり、眉をひそめるような醜聞も、実はそうでもないことが分かり救われるような気持ちになることもある。
まるで伝説の雑誌“ウワシン”こと『噂の真相』の発行人岡留(おかどめ)氏のような凄みがどことなく感じられる。
岡留氏とは一度名刺交換したことがあるが、実際の岡留氏は噂通りの、本当にあのままの人だったので驚いた記憶がある。

北山修が作詞し、加藤和彦が作曲したフォーククルセダーズの名曲に『あの素晴しい愛をもう一度』がある。

命かけてと 誓った日から
すてきな想い出 残してきたのに
あの時 同じ花を見て
美しいと言った二人の
心と心が 今はもう通わない
あの素晴らしい愛をもう一度
あの素晴らしい愛をもう一度

この歌には(噂であるが)“誕生秘話”がある。
フォーククルセダーズのはしだのりひこ氏はお金に対して“しっかり”していることで有名で、よくコンサートでもネタにされていたが、あるとき作詞家の北山修氏がはしだ氏に金を貸したが結局踏み倒された。
友情を裏切られた悔しくも悲しい思いをこの歌に託したというのである。
それを知ってこの歌を聞くと、また趣も変わろうというものだ。

シャボン玉とんだ
屋根までとんだ
屋根までとんで
こわれて消えた

シャボン玉消えた
飛ばずに消えた
うまれてすぐに
こわれて消えた

風、風、吹くな
シャボン玉とばそ

誰でも知っている『シャボン玉』である。
明治の詩人野口雨情の作詞であるが、野口の子供が生まれて1週間で死んでしまった悲しみの中で作った歌であることを知ると、ただの童謡とは思えないであろう。

平板だと見ていた世界も、“世情”“裏話”“秘話”を知ると、一味違ってくるものである。

2008年1月25日金曜日

宇宙人

Kさんが宇宙人であることを知る人は私以外にはいない。
宇宙人であるから、本来空気は必要なく、だから時々呼吸がうまくいかず眩暈(めまい)がするようである。
地球の重力と折り合いがつかず、肋間神経痛と坐骨神経痛を患っている。
また宇宙人の特徴として、匂いがない。
汗をよくかくと言うわりには汗臭くなく、ニンニクをいっぱい食べたというわりには翌日も全く匂わない。
皮膚の色素も少なめで、時々半透明になるが、普通の地球人は気づかないようである。

Kさんも含めて先日10人くらいで会食に行った。
「Kさんが隣に来ますように」
ひたすら祈ったら、通じるものである。
しかし隣で寝ていたが。
世俗を超越しているところが、また宇宙人の宇宙人たる所以である。

そんなKさんであるが、地球に着てからミスを犯したことがある。
左手の人差し指にある小さな傷は包丁で傷つけたものだ。
地球での生活が長すぎるのかもしれない。
もうすぐ28年だ。

一姫がまだ小さいころ、小学校低学年のころであろうか、一丁前に包丁を使ってみたいという。
細君によると、興味を持ったときにさせておくのがよろしいとのことで、子供用の包丁を買い与えた。
慣れてくるといろいろ困難も出てくる。
大敵は玉葱(たまねぎ)だった。
子供の目の位置は低いので、とにかく目が痛くなるらしい。
それでもカレーか何かで玉葱を切らなければならなくなり、一姫は知恵を絞り当時スイミング教室に行っていたので水泳用ゴーグルを持ち出してきた。
あんなものを付けると視界が悪くなるはずだが、玉葱の攻撃にゴーグルで対抗しようとした。
案の定というか指を切ってしまった。
血は出たが大した傷ではない。
しかしそこは子供であるから大声で泣き始める。
みるみるうちにゴーグルの中に涙が溜まっていった。

「大丈夫?大丈夫?」
と、慰めながらも、ゴーグルの中の「水位」が高まるにつれ、笑いを堪えるのが大変だった。

小さな子供も宇宙人である。

2008年1月24日木曜日

容器戦争

出版社B社で打ち合わせがあった。
月に一回の月例ミーティングだ。

最初にW部長(男性)がやや真剣な顔で封筒を差し出した。
ラブレターでもないようだ。
そっちの趣味はない。

封筒の中身はこうだ。
最近“自費出版するのにお金だけ払わされて、本が書店に並ばない”と訴訟沙汰になり、結局会社更生法の適用を受けたS社が世間を騒がせているが、B社でも自費出版のビジネスを手がけており“うちは大丈夫なのでご心配なく”との書面を関係者に送っているとのこと。

ところで、いま出版業界は売れなくて大変らしい。
だから品格モノが雨後の筍のように出版されるのか。
出版社は中身で勝負できなくなると見るや、ターゲットを見直して携帯小説のコンテンツ提供に勤(いそ)しんだり、装丁に凝ったりしているらしい。
1980年代だったか、ビール各社が中身で勝負せずに、やれ樽型だ、注ぐときに音の出る容器だ、果てはロケット型容器だ、と「容器戦争」に狂奔したことがあった。
なんだかあの不毛な戦いを思い出してしまう。

出版業界も大変かもしれないが、古典を読んで分かるように、右顧左眄(うこさべん)することなく、基本に忠実に、“誰に何を活字で伝えたいのか”をもう一度考える時期であろう。

それにしても、こうして誰にも読まれなくても自由に書いて公開できる時代であるから、私は幸せである。
ゆめゆめ才能のないものが活字にしようなどと考えないことだ。
えらい目に遭う。

2008年1月23日水曜日

隠密同心

今日は件(くだん)のフリーランスのライターOさんと打ち合わせてから、昼食をご一緒した。
先日テレビで美味しそうな天麩羅が映っていたので、頭の中は天麩羅一色になり、今日は最初から天麩羅!と決めていた。
最近の天麩羅屋はカレー粉も常備してくれているので、烏賊(いか)の天麩羅はカレー粉で食す。
海老はもちろん塩で。
ピーマンは天つゆで。

いつも椅子の背もたれに首だけもたれかけるくらい深く座る後輩I氏から“見ましたよ”なる不審なメールが着た。
私がOさんと天麩羅を食べていた姿を店内で目撃したらしい。
オードリー・ヘップバーン似の細君を持つ果報者の後輩O氏も映画『ターミネーター』のサラ・コナー似の主婦Mさんも一緒だったとのこと。
私に声も掛けずに監視していたらしい。
まるで隠密同心のような3人である。

こまったものである。
私がゴルゴ・サーティーンなら3人は今頃抹殺されていたはずである。

もっとこまるのは、Oさんが壁を背にして座っていたので、私は後頭部を3人に晒(さら)していたことである。
つむじが二つあって、どちらも左巻きであることがばれると、やれ“へそまがり”だとか“少し変わってる”とか“わがまま”だとか“いじわる”だとか“すけべ”だとか“怠け者”だとか“せこい”とか“覇気がない”とか“恐妻家”とか“ポリシーがない”とか“トイレが長い”とか“ポニーテールの女の子が好き”とか“自販機では商品よりお釣を先に取る”とか“美人とすれ違うと一応香りを嗅ぐ”とか“妄想癖がある”とか“蜘蛛が恐い”とか“昼食付の会議が好き”とか、謂(いわ)れのない中傷を受ける恐れがあるのだ。

2008年1月22日火曜日

月に願いを

山中鹿介(しかのすけ)こと山中幸盛(ゆきもり)は、戦国時代の山陰地方の武将である。
御家再興のためなら楽な道など選ばずともよい、とばかりに
「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」
と三日月に祈った逸話で知られる。

どうも三日月お月様は、鹿介と私を間違えているような気がしてならない。
順調に事が運んでいると安心していると必ず落とし穴があるし、テレビゲーム(私はやらないが)のように邪魔者が間断なく襲ってきて私を多忙にして悩ませる。

三日月も早く気付いてほしいものだ。

私は艱難辛苦(かんなんしんく)は大嫌いなのである。
万事ゆるりと生きたいのだから。

2008年1月21日月曜日

赤いランプの終列車

亭主の稼ぎが悪いので、細君は外で働いている。
高齢社会らしく、デイケアサービスで昼間に要介護老人を施設に受け入れて、風呂に入れたりレクリエーションをしたりするのである。

帰宅したら、細君が姫たちに叫んでいる。
「明日の朝ごはんはサンドイッチだからね。冷蔵庫に入れとくよ。分かった?」
「サンドイッチマン、サンドイッチマン♪」
思わず私は鶴田浩二の名曲『街のサンドイッチマン』を口ずさんだ。
「ちょっと!!仕事で70歳のじーさまのその歌聞いてきたんだから、家に帰ってきてまで聞きたくないわよ」
と、細君。
「よく言うものだ。サンドイッチがどうのこうの言って、思わず歌いたくなるのは当然ではないか」
と、心で愚痴る。

風呂に入った。
気分転換に春日八郎『赤いランプの終列車』を口ずさむ。
すると脱衣所から細君の声。
「音程、ずれたよ」
「何を言うか。これは私の十八番(おはこ)であるぞ」
「こっちは毎日毎日そんなナツメロばっか聞かされてんのよ。私が間違うわけないでしょ」
「こっちもこの曲は何十回と歌ってきたのだ。間違えているのはそっちと考えるのが自然であろう」
「何言ってんのよ。ピアノ弾いても、“最初はあの曲かなぁ”って思って聞いてても結局途中から何の曲か分からなくなるくらいの音感のくせに」
「私の専門はピアノではない。フォークギターである」
「よく言うよ。普通の人はFコードで挫折するのに、Gコードで挫折したのは誰よ。結局30年以上前のギターが、真新しいまま、パパの実家の押入れにあったじゃない」
「とにかく君が聞いた『赤いランプの終列車』が間違っていたということだ。老人が歌ったのだから許してあげなさい」
「言わせてもらいますけど、こっちはレコードを聞いてるんですけど」
「レコード?きっとヒカワ何某(なにがし)のカバー曲か何かであろう。あんな若造が春日八郎の心を理解できるわけがないであろう」
「ちゃんとした春日八郎のレコードですぅぅぅ」
「うっ!私が歌う歌こそ正調『赤いランプの終列車』なのだ。レコードなどの録音ではなく、微妙に音をずらした、そう!テレビで見たライブの感じを出しているのだ。これこそが生きた歌である」

やっと細君も真実に目覚めたようで、黙って洗濯機のスイッチを入れた。

グモン・グモン・グモンと洗濯機が動き始めた。
うるさいが、洗濯機なぞに負けるわけにはいかない。
黒木憲の『霧にむせぶ夜』を正調で熱唱した。

2008年1月20日日曜日

寒い。

それでも、犬と海岸に散歩に行った。
海が見たかったから。

人が少ない冬の海。
灰色の海である。

海は大きい。
刺刺(とげとげ)しい日常を、包み込んでくれる。
些細(ささい)な悩みなど、寄せては返す波が洗い流してくれる。
嗚呼、やはり来てよかった。

なんて、全然思えない。
海は海で、私は私だ。

2008年1月19日土曜日

お守り

高校同級生T津の高校時代の名言に次のようなものがある。
「だいたい勉強もせんと、神頼みだけする奴が多すぎる。そんなもんで大学に合格(うか)る筈がない。とはいえ、勉強だけしとってもあかんのや。一所懸命勉強して、それで神頼みもせなあかんのや」
結果的に東大に現役合格したのだから、説得力がある。

先週はクサクサすることが多くテンションは低かったが、今日は重い腰を上げジムに行った。
やはり汗を流すとスッキリする。

年明けに買っていた泉岳寺のお守りを鈴木典史選手に渡した。
2月10日に日本ミドル級チャンピオンに挑戦するのだ。
泉岳寺は赤穂義士が祭られているのだから大願成就は間違いない。
「まぁ、通過点でしょうが、念には念を入れて」
と、私。
「いやぁ、お守りなんて嬉しいですねぇ!」
と、鈴木選手。

あの地獄の練習を見ていると、どう転んでも不安はないが、私のお守りが後押ししたと評価されるであろうから、気持ちいい。
v(^^)

2008年1月18日金曜日

今日は大相撲観戦に行ってきた。
一昨年の秋に単行本を発刊した時のチームでもある、フリーランスのライターOさんとこないだの3連休でめでたく結婚されたS出版の宮崎美人Hさんの3人である。
6人の枡席であったので3人でゆったりと座れると思ったが、座敷に酒やアテを置くので、なかなかそうもいかない。

OさんもHさんも桝席は初めてとのことで、特にOさんは相撲が嫌いなほうではなかったが、実際に観戦するのも初めてとのことで、喜んでいただいた。
博学のOさんに解説していただいたところによると、白房(しろぶさ)や黒房(くろぶさ)など4色の房(ふさ)が東西南北に土俵の上に垂れ下がっているが、あれは四季を表していて玄冬(げんとう)とかそれぞれ房と季節が関係しているとのことだが、ざわざわしていたし、ゆるりと飲んでいたので、まったく憶えられなかった。
また、何かの機会に調べておこう。

大相撲は一年ぶりくらいか。
相変わらず、旧態依然とした閉鎖的な世界であるが、だからこそあの独特の雰囲気が守られているのかとも思う。
お茶屋の支配下に置かれた桝席は、毎度決まったつまみと決まった銘柄の酒しか供されない。
どんなに日本人の体格が変わろうが、座敷に座ることが苦手な人が増えようが、外人がウロウロと増えることになろうが、桝席の大きさは一人あたり座布団一枚ちょっとである。
横の4人用の桝席に巨大な白人が3人すし詰めになっていた姿は滑稽でさえあった。
とはいえ大相撲はこのままでいいのである。
土俵の大きさや年間の場所数は変わってきたようだが、このベタな独特のビジネスモデルは変えては柔道がJUDOになってしまうに等しくなる。
受け入れられなくなったら、迎合するのではなく、衰退の道を選ぶべきだと思う。
日本人には、なんだかんだいって受け入れられるような気がする。
取組みによっては面白いし、あの大銀杏を結ったすべすべの巨体がぶつかり合う姿には、なんとも言えない美学を感じる。

とはいえこれからも人気の浮き沈みはあるだろう。
今場所は朝青龍が復活して人気回復か、と報道されていたが、今日は満員御礼の垂れ幕が下りるどころか、二階席はガラガラであった。

何かが足りない。。。

何かが足りないのだ。

そうだ、華がなくなったのだ。

2008年1月17日木曜日

山側・浜側

阪神淡路大震災から今日で13年である。
初めての家族四人でのハワイ旅行の最中だった。
兵庫の実家に何か用があり電話したが通じないのでおかしいなと思ったがCNNニュースを見て驚いた。
一時間ごとのNHKニュースでは、“兵庫県南部で大地震”との報道で高速道路は倒れるは、伊丹市ではペシャンコになった家の屋根に少年が乗り家族を呼んでいる映像が繰り返し流れた。
どうりで日本のどこにかけても通じないはずである。
実家の赤穂の状況は皆目分からない。
仕方がないのでいつもと同じようにビールを飲んで寝た。

翌朝、細君は私に言った。
「自分の親の安否も分からず、よくグースカピースカ寝られるわね」
グースカピースカでなくスヤスヤだったはずなのだが、情報を得る方法がないのだから寝るしかない。
実家のある赤穂は震度4程度だったが、神戸の親戚宅は全壊、伯母家族の命があっただけ幸いだった。

NHKアナウンサーの住田功一君は予備校のクラスメートだが、同日はたまたま神戸の実家に帰っていた。
実際の経験はないだろうが、寺の鐘を突くあの太い棒で、真下からドンと突き上げられたような衝撃を受けたらしい。
そして職業柄というべきか、咄嗟(とっさ)に揺れる秒数をカウントしたというから恐れ入る。
私なぞは細君と結婚前にレッドロブスターで食事をしていたら、急に地震がいて(地震はいつも急だが)怖くてテーブルの下に頭を入れた。
こういうことは、のちのちまで
「私よりも自分が大事なのね」
と言われた。

住田君は外に出た。
遠くで何箇所か煙が出ているようだが、まだ暗くてよくわからない。
「ヒッチハイク」で乗り継いで浜(神戸は六甲山と瀬戸内海に挟まれているので山側・浜側という言い方をする)の方へ向かった。

悲惨な光景がそのあたりに。
全壊の家屋、倒れた高速道路の下敷きになった自動車から血が流れている。
しかし救急車などの緊急車輌が走ってくることもなく、シーンとしている。
状況から言ってそうなるのが頭では理解できても、なぜか不思議でしょうがなかったらしい。

人が出始める。
OLらしき人が話しかけてきた。
「電車動いてるでしょうか?会社に行きたいんですけど」
「こんな状況ですから、仕事にならないと思いますよ。家に帰って連絡を待ったほうがいいですよ」
人は、あまりにも環境が急変すると正常な判断ができなくなるのだ、と思ったという。

そのあたりで電話が通じた家を見つけて局に連絡を入れて、そこに来るまでの被害状況と現在のまわりの状況を話してそれがNHKラジオでオンエアされた。

阪神・淡路大震災の“第一報”である。

2008年1月16日水曜日

寒中見舞い

私には“兄貴分”と呼んで敬愛する人が幸運にも3人いる。
ただし、3人とも勝手に私がそう思っているだけの「片思い」に過ぎない。

そのうちの一人青山繁晴さんは、「朝まで生テレビ」などで軍事評論家として有名であるが、作家としても有名だ。
以前ある雑誌に書評を書いていた頃、いろんな新刊を探すのが常であったが、私の高校の主にOBに向けた新聞に大先輩である青山さんが単行本を上梓したことが掲載されていた。
こんなときでないと、先輩孝行もできないだろうと、一面識もなかったが書評を書くことに決めた。
共同通信記者時代に、昭和天皇が病に倒れ崩御するまでをつぶさに取材し、2002年に文藝春秋より上梓された「平成」である。
しかし締め切りが迫っていたので、不躾にもOB名簿で電話番号を調べて、趣旨を話したところ、あらすじや読者に読んで欲しいところを詳しく話してくれた。
本を片手に私はメモを取ったのであるが、いま考えても大先輩に対して失礼な話である。

しかし、その敷居の低さにいっぺんにファンになってしまった。
そのときは、テレビに出ていることも知らなかったので、書評が掲載されたら持参する旨を伝えて後日お邪魔した。

驚いた。
日本に本格的シンクタンクを、との思いで、国家安全保障から海洋環境問題までを扱う独立研総合究所を設立されていて、警察庁や防衛庁(当時)をクライアントにされていた。
とんでもない人のところに気楽に来てしまったと思ったが、生来の極楽トンボなので、いろいろ話を伺うことができ、そのあとも数回お目にかかった。

以来年賀状のやり取りはさせていただいているが、先週末には寒中見舞いをいただいた。
昭和天皇崩御から20年とのことで、年賀ではなく寒中見舞いである。
なんでも昨年は1日も!休まなかったとか。
シンクタンク中心の活動になってきたが、今年は「作家」としての活動を再開されるとの由。

そんな兄貴分を尊敬しつつも、たった一日夜更かししただけでフラフラになる私は、5日間連続で徹夜をされてもタフな先輩を真似ようなどとは決して思わない。

2008年1月15日火曜日

進化論

ここ数年で体のある変化に驚いた。
足を並べてみると、明らかに右足のほうが1cmほど大きいのである。
どうりで右足にばかりマメができるはずである。
高級な靴屋で注文すれば、右を左より大きく作ってくれるのだろうが、そんなことをいちいちやっていてはきりがない。

ダイクマの見切り品コーナーのようなところで、知らない振りをして右27cm・左26cmを選んで買ってもばれないのではないかとも思うことがあるが、レジで
「あっ、お客さん、左右違ってますね」
と言われたときに
「いやぁ、そうですね。でも私は細かいことは気にしない性質(たち)だから大丈夫」
などと言ってしまい、レジ担当者が
「靴売り場の○○さーん、3番レジまでお願いしまーす」
と店内放送なぞするリスクを考えるとさすがに踏み切れない。

また、最近ランニングをしていると左ひざが痛くなってくる。
どうも、左足より右足のほうが長いような気がする。
おかしい・・・

思い当たることがある。
ここ一年くらい犬の散歩で海に行くことが増えた。
湘南海岸を西から東に走ることが多く、おそらく2、30回は走っただろう。
つまり低い海側にいつも右足があるのだ。
きっと右足が進化して左足より伸びて左足に負担がかかっているに違いない。
海側の柔らかい砂浜に足を取られないように右足が進化して左足より大きくなったに違いない。

「進化論」を語っているヒマがあったら、早く赤坂の名医島田先生のところに行ったほうがいいかもしれないが、、、痛い。

2008年1月14日月曜日

ウルルン

昨夜、遅い夕食を摂りながら『世界ウルルン滞在記、再会スペシャル』を見た。
レギュラーのウルルンも面白いが、時を経て懐かしい人に会いに行ったり会いに来たりする設定が大好きである。
年末に32年振りに瀬戸田しまなみユースホステルの大本さんを訪ねたのも私にとっては再会スペシャルだ。

夕食は鮭のチャンチャン焼き、豆腐ステーキ、おでんなど。
おでんはやはり関西風に“関東炊き(かんとだき)”と言うほうがシックリくる。
その関東炊きを食べながらいつものようにボーッと考え事をした。
ふと取り皿を見て驚いた。
なんと一口残したはずのゴボ天(こっちでは、ごぼう巻と言うかもしれない)の中のごぼうがスッポリと無くなっていた。
「あれ!誰か中身のごぼう食べた?!」
すると細君
「あのぉ、それ竹輪なんだけど・・・。まだボケてもらうには早いんだけど・・・」
斜めに半分に切ってあった竹輪の“尖った”方をカプリと食べて皿に置いていて、考え事をして、その前に食べていたゴボ天から記憶が“トリップ”したようである。

15年前の“16年ぶりの再会スペシャル”を私は思い出していた。
1977年頃だったが、ロータリークラブの交換留学生でシアトルから男がやってきた。
名前は、Brian Robert Duff(ブライアン・ロバート・ダフ)。
確か2歳くらい年上の陽気なおにーちゃん(兄ではない)で、ホームステイ先の最寄り駅が私の家の最寄り駅と同じだったので、よくアメリカンジョークを飛ばしながら一緒に電車で帰った。(ただ、ブライアンは日本語が堪能だったので、アメリカンジョークは私の記憶違いかもしれない)
それに、赤穂市内の市営テニスコートは2時間30円で借りられたので、何度かテニスも一緒にやった仲であった。
その後どうやって別れたかも記憶にないが、いつのまにかブライアンはシアトルに帰っていた。

15年前の1993年2月、ある研修でシアトルに行く機会に恵まれた。
「シアトルと言えば、ブライアン」
短絡的かもしれないが、そう考えた。
いま思い出しても短絡的である。
なぜか再会できるのではないかと考え、策を考えた。
104に電話してみた。
するとKDDの国際電話番号案内にかけるよう言われた。
かけてみた。
「あの、シアトルということしか分からないのですが、それでそこにいるかどうか分からないのですが、ブライアン・ロバート・ダフって人の電話番号はありますか?」
あった!のである。
しかし、それが本当にあのブライアンかどうかはもちろん分からない。
とりあえず、かけてみた。
訳の判らないテープが流れる。
何度かけても同じである。
聞き取ろうとしても聞き取れない。
中学・高校・大学と10年間も英語を勉強したはずなのに、何を言っているのか判らない。
声もブライアンのようで、違うような気もする。
再度KDDの番号案内に電話して、その経緯を説明して、交換手のおねーさん(姉ではない)にかけて聞いてみてくれと頼んだ。
なぜかやってくれた。
しかしおねーさん(姉ではない)も
「留守番電話のようですが、“ここはあなたの世界です”というような意味で、名前を特定できるような内容ではありません」
とのこと。
諦めた。

渡米して、何箇所か都市を経てシアトルへ。
シアトルの訪問は2泊であった。
1泊目の夜、研修を終えて集合での夕食を終え一人でホテルのバーへ。
バーテンダーの渋いおじさんに、日本を経つまでの経緯を話してみた。
もちろん、英語での会話である。
本当である。
するとおじさんは
「それはきっとメッセージを残せる留守電だよ。何かメッセージを残しておいたほうがいいよ」
と、アドバイスしてくれた。
英語でである。
本当である。
ホテルの部屋に戻って電話をかけてみた。
米国内だと違ってかかるんじゃないかと期待したが、日本で聞いたのと同じ、訳の判らないメッセージが流れた。
仕方がないので、そのあとにメッセージを残してみた。
「憶えてる?もし君があのブライアンなら、私はいま○○ホテルにいるから連絡ちょうだい」
もちろん英語である。
本当である。

翌朝、朝食を終え部屋にいるとホテルの交換から英語で電話が入った。
「ブライアンさんから電話ですが、つなぎますか?」
♪☆※!○$◇(^^)・・・こんな気分になった。

2泊目の夜、16年振りに再会した。
ボロい車でホテルに迎えに来てくれた。
会話は途切れることなく続き、ワシントン大学の学生街にあるトルティーヤチップスの美味いメキシカン料理屋、海辺の蟹が美味いシーフードレストラン、そして静かなバーと3軒ladder(はしご)した。(会話は英語ではなく“ルー語”であったような気がする)
ブライアンも陽気に飲酒運転してくれた。
ちなみに、あの留守電のことを話すと、ブライアンは笑いながら
「ああ、あれは“ここからはあなたの世界だよ”つまり、電話をかけてきた人の世界だから、メッセージを残してって意味で、あれはアメリカ人の友達からも、判りづらいって苦情が来てて変えようかと思ってたところなんだ」
とのこと。
“慰め”だったかもしれないが、KDDのおねーさんも“クリア”できなかったのだから、本当に偏屈なメッセージだったのかもしれない。

Ten months later、その年の12月、クリスマスカードを送った。
返事は来なかった。
翌年、1994年も送った。
返事は来なかった。
1995年も送った。
返事は来なかった。
1996年1月にブライアンの母上から手紙が来た。

January 28,1996
Dear
This is to let you know that Brian died two years ago on December 26,1993.
He got sick in October and died in December of aids.
Sincerely,
His mother

10年前の1998年5月、シリコンバレーからボストン、ニューヨークへの出張があった。
スケジュールに余裕が生じたので、ニューヨークからの帰途、途中下車ならぬ「途中下機」してシアトルに寄り、アポなしでブライアンの家(もちろん初めてである)を訪問してみた。
ガレージのシャッターを閉じているおじさんがいたので、母上からの手紙を見せて訪問の旨を話したところ
「よく来てくれた、おーい!かあさんや!」
と、叫び招き入れてくれた。
玄関で靴を脱ごうと思ったが、土足で入ることができた。
しょうもないことで、アメリカを実感した。
ブライアンの思い出話を一通りしたが、やはり寂しそうであった。
適当なところで辞して別れた。

ごぼうを探すのは当たり前である。

2008年1月13日日曜日

Vintage

久しぶりにゴルフ練習場に行った。
10年振りくらいであろうか、もっとか、記憶にないくらい久しぶりである。
一姫が体育の授業(なんと高校二年生)で選択していて、なかなかうまく打てないとのこと。
少しは父親らしいところを見せるか、と重い腰を上げて、外の収納からクラブを引っ張り出した。
グリップがボロボロになっているのでは、と懸念したが、、、よかった、無事である。

打ちっぱなしの雰囲気は、昔からそうであるが相変わらず退廃的である。
練習場とはいえ、一応神聖なスポーツの一環なわけで、しかも紳士のそれであるにもかかわらず、来ているおじさんたちは、・・・うまく表現できないが、「凛(りん)」としていない。
くわえタバコ!で球を打つおっさん、クラブを振舞わすとヨタヨタするくらいの小さい子供に練習させる若夫婦、と集中力を削ぐアイテム満載である。
まぁ、とはいえ、そこはスポーツ、敬意を表してストレッチをする。
それにストレッチくらいしないと、ベストスコア112という話にならないレベルであるから、体が動かないことにはどうしようもない。

それでも軽く打ってみるとなんとかまっすぐ飛んだので、どうもワインのように熟成されて上手くなったようである。
このまま何もせずにあと10年熟成させれば、100を切ることも可能であろう。
とか、妄想しつつも、一姫は若いだけあって少し教えると250球ほどであったが、みるみる上達した。
私も将来横峰氏のように参議院に立候補しようかと思ったくらいである。

昔、関西に吾妻ひなこさんという漫談家がいて、テレビでゴルフのことをしゃべっていた。
「ゴルフね、あんな広いとこ使ってね、もったいないと思いませんか?球を穴に入れたいだけでしょ?そんなに球を穴に入れたいならパチンコしなさい」
高校生だった当時は大笑いしたものだが、広いところで、うだうだバカ話をしながら、穴を目指して球を打つのは、やはり面白いのだ。
カネも暇もないので、もうよほどのことがない限りコースには行かないと思うが、こうして久しぶりにクラブを振り回すと・・・

いやいや、熟成までまだ時間が必要だ。

2008年1月12日土曜日

東京都知事

昨夜は、ニッポンを明るくする企業に勤めるNさんとNさんの部下で美女のTさん、それに某経済団体に勤務、陶芸家を夫君に持つYさんと4人で東銀座「VINORIO EST」で会食。
オフホワイトをベースにした落ち着いた内装で、他の客も二人連れだけだったので、ゆっくりと食事ができた。

メニューを見て“テーブルチャージ800円”に驚き
「吉野家なら二回食えるな・・・」
と、言うと、Yさんが
「今日は、そういうことは言わないの」
と、すかさず、たしなめる。

せっかくなのでおまかせコース(6000円)をいただいたが、シェフがこの道では有名らしく、なかなかの腕前。

昨年11月にNさん、Yさんと3人で食事した時には、ワイン4本飲んで3人とも前後不覚になったが、今回は美女Tさんもいたので、各自アペリティフのあとは4人で白1本、と大人の飲み方。
食後酒は、稀少ワインとかで、薔薇の香りのするものをいただいたが、本当に薔薇の香りで驚いた。

Yさんにはいままでも色々店を教えてもらったが、このような高級店からB級グルメの店まで本当に美味い店ばかりで感心する。
料理が美味しいとついつい蘊蓄を言いたくなるが、最近はあまり言わなくなった。
昨年、あるテレビ番組に、石原都知事が出て、料理を供されて感想を聞かれた。
「うん、美味い!」
司会者が
「もう少しコメントしてくださいよ」
と、言うと
「金持ちは、細かいことを言わないんだよ」

共感した。私は金持ちではないが。
漫画「美味しんぼ」に毒され過ぎたか、やたら料理を吟味するというか、材料まで言及しなければいけないような強迫観念に踊らされてきたような気がする。

これは食べ物に限らず、音楽も同じであろう。
誰々という有名ミュージシャンだからとか、高名なオーケストラだから、と有り難がるのではなく、魂に響けばそれでOKであろう。
金額の高低ではないのだ。場末のJAZZでもいいものはいい。

もちろん、貧乏人の遠吠えではない。

2008年1月11日金曜日

そこそこ

昨夜は、生涯の飲み友達の一人、外資系企業のNちゃん(男である)と、約2年振りに再会、ワインを酌み交わした、亦(また)愉しからずや。
高収入、幸せな家庭、加えて島耕作ばりの男前であるから、会うといつもインスパイアされる。

人との会食は疲れるから、予定は週末しか入れたくない、と話すと叱られた。
「男子たるもの月月火水木金金で備えよ!ましてや、週末じゃないとダメ、なんてタフさが無さすぎる」
とのこと。

そこから、なぜ私がもてないのか、という議論に発展。
Nちゃんのご高説によると、中年おやじがモテるためには、最低3要件が必要とのこと。
①話が面白い(≒大人である)
②美味しい店を知っている(高ければいいというものではないが、ずっと安い店ってのもNG)
③週に一回はデートができる資金力

Nちゃん、私を見ながら
「外見はそこそこで、話は面白いし、美味しい店も知ってるし・・・」
すかさず私
「最後の資金力は絶望的!」
続けて
「“そこそこ”ってのが曲者(くせもの)よね。話面白いって言ってもNちゃんとの与太話だし、美味しい店もコテコテB級グルメだし」

Nちゃんを論破した。

2008年1月10日木曜日

庶民考

一、二年前であったか、ビッグコミックオリジナルに川柳を投稿したことがある。

紳助が「われわれ庶民」と憤(いきどお)り

残念ながら、掲載は見送られた。
みのもんた氏が「一般庶民の立場としてはねぇ」とコメントするのを聞くにつけて、いい出来だと思ったのだが。

2008年1月9日水曜日

手抜き疑惑

江戸時代の武士は、朝から登城して働いて、夕方4時頃には城をあとにするのが通常の勤務形態だったと何かに書いていたような気がする。
おそらく庶民も同じような感覚だったのだろう。

街灯もないので、リスク管理上も妥当な時間だったのかもしれない。
とはいえ、いつも寝ている動物園の動物を見ても分かるように、人間も集中して労働に従事できる一日当りの時間はそれくらいが限界なのではないか。
“お家断絶の危機”とか“一朝事あるときは”などのケースは、そんな暢気(のんき)なことも言ってられなかったと思うが、それはあくまでも緊急時の話である。

そういう意味では現代人、特にサラリーマンは大変である。
なんだかんだいって、朝は9時頃から夕方は定時でも5時や6時、まぁそういう定時で帰れる職業・職種は限られていて、大概7時8時は当たり前なのではないだろうか。
毎日が“お家騒動”である。

年が明けてから、このブログは手を抜いているのではないか、との意見が何件か寄せられた。
年末年始と9日間、人間らしい暮らしをしたのであるから、そう簡単にはサラリーマンの時間感覚に戻れるわけがない。
それに、そもそも、私が手を抜かないことと言えば“手を抜くこと”だけなのであるから、私が手抜きをしているのではないかという疑念そのものが、既に自家撞着(じかどうちゃく)に陥っていることになる。

ただ、今年になってからだけではなく、毎朝起きても眠くて眠くて、また夕方4時頃になると毎日集中力が途切れるのは、1987年と1998年にニューヨークに行ったときの時差ボケが治ってないからだと密かに思っていた。
しかし今回深く考察してみて分かったことは、私の体内時計は人間本来の時間感覚に忠実なだけで、私はいたって正常だということである。

2008年1月8日火曜日

社長の値打ち

元日に神戸大学大学院の長田貴仁准教授から「賀正メール」をいただいた。
以前、仕事で関わったご縁で時々連絡を取らせていただいている。
昨年10月に『社長の値打ち』(光文社新書)を上梓されたとの由。
その場でネットでセブンアンドアイに発注した。

その本が昨日届き読了した。
辛口な長田さんらしく、世の社長と肩書きの付いた方々には耳の痛い内容であろうが、当方のように気楽な立場で読む分には面白かった。

前職はジャーナリストだったので、さすがの取材力と洞察力で、子連れ狼の拝一刀か桃太郎侍のように、軟弱な経営者をバッサバッサと切り捨てる一方、事業に命を懸けた松下幸之助翁や本田宗一郎氏、また現役であるが京セラ稲盛氏やセコムの飯田氏などには熱い眼差しを向ける。

学ぶべき点は、事業を興すには「志」と「勇気と覚悟」が必要であること、そして、とんでもないほどの人間愛が備わっていなければ事業の拡大はおろか継続も難しいということである。

「だから君は間違っても会社を興そうなんて考えちゃだめだよ」と示唆してくれた良書である。

2008年1月7日月曜日

七草粥

今朝、七草粥を食べた。

「あんまり美味いものではないねぇ」
と、私。
「縁起物だから、文句言わないの」
と細君。
「縁起物と言っても、子供の頃にそういう習慣はなかったからねぇ。食べなくても私は十分幸せだったし」
「子供の頃って、少なくとも結婚してからは毎年出してるんだけど、気付かなかった?それに、幸せだった、ってなんで過去形なわけ?」
「いや、それは、まぁ、、、、そういえば、結婚してからは毎年菖蒲湯(しょうぶゆ)にしてもらっているし」
「菖蒲湯?なに季節外れの話をしてるのよ」
「あれっ、菖蒲湯っていつ入るんやったっけなぁ」
「とにかく、屁理屈つけて口に合わない食べ物から逃げようとするのやめてくれない?今に始まったことじゃないけど」
「へいへい」

菖蒲湯に入ると繊細な肌の私は必ず背中が痒くなる、という話題は今日は我慢した。

2008年1月6日日曜日

LOVE STORY

ブックオフで往年の名作DVD『LOVE STORY』(邦題「ある愛の詩」)を購入して昨夜見た。
どうしても観たかったからではなく、安かったからである。

主演は若き日のアリ・マッグロウとライアン・オニール。
アリ・マッグロウが先に書いてあるということは、こっちが格上か。
ライアン・オニールといえば、『がんばれベアーズ』のテイタム・オニールの父上のはずだ。

自称映画好きであるが(映画をよく観るわけでもなく、映画に詳しいわけでもなく、根拠もなく自称しているだけだが)アリ・マッグロウ、初めて姿を見たのであるが、それはそれはキュートであった。
たしかステーブ・マックィーンとも結婚していたはず。
高校の宗教の時間に(カソリック系なので“道徳”の時間みたいなもの)、どういった経緯か、スティーブ・マックィーン主演の映画でも有名になった『パピヨン』の話になり、当時担当のB神父(ベルギー人)が
「Oh!それ、知ってまーす!」
と、叫んで授業中に自分の部屋(学校の中に住まいがあった)に戻り、持って来たのが分厚い本で『PAPILLON』
確か原作はアンリ・シャリエールという人だったが、B神父は興奮気味に(よく興奮する人だった)
「作者は、ホリ・シャリエールでぇすぅねぇ!」
と。
今になって調べてみると作者はHenri Charriereというフランス人。
なるほど、発音の仕方の違いか。

で、なんでアリ・マッグロウの話になったかというと他愛もない話で、当時スケベで有名だった同級生のM岡がB神父に向かって
「スティーブ・マックィーンが、あの可愛いアリ・マッグロウと結婚して●●●●●●●と思うと、悔しくて悔しくて!」
と、叫ぶと、B神父は真っ赤な顔になり(いい年であったが)口を手で押さえて笑いを堪えていた。
そんなことがあり、一度アリ・マッグロウなる女優を見てみたいもんだと思っていたのである。

映画は1970年という時代の独特の雰囲気を醸し出し、ハーバード大学に通う金持ち坊ちゃんと貧乏だが才能ある娘が恋に落ち、やがて娘は病魔に侵されて・・・と、ベタなストオリイにも関わらず、若い二人が惹かれあい、仲睦まじく触れ合う姿が、見事に美しく描かれ、淀川長治さんは当時この映画をどう解説したのであろうか。
10年前に縁あってハーバード大学を訪問したが、伝統的な東部独特の景色は1970年のそれと変わっておらず、景観を含む伝統を維持する力に改めて感心した。

場面は違うが二人が口にした台詞(せりふ)は、本作のキイワアドになっている。
“love means never having to say you’re sorry”(愛とは決して後悔しないこと)

後悔ばかりしている私は、まだ本当の愛に巡り合っていないことになる。

愛を求めて彷徨(ほうこう)する旅は続く・・・

2008年1月5日土曜日

関東事情

ベテラン女子アナI田さんから携帯に謹賀新年メイルが届いた。
帰省しているとのことで、今日は須磨の海が穏やかできれいで、穏やかな一年になりますようにとの由。
夕方に散歩した湘南の海も穏やかであった。
気まぐれにボードウォークで犬の写真を撮り添付して返信した。
湘南と神戸との日没の違いに気づいてくれるだろうか。

大学時代に関東に出てきている同郷の友人H原が
「こっちにきて、日の暮れるのが早くて最初は戸惑ったよな」
と、言ったが、当方はいつもボーッとしていて、ましてや日暮れと時刻の相関関係など意識することもなかったので、そんな発言に新鮮な驚きを感じたものである。
そんな話を同じく同郷のS賀に話すと、当時でもすでに珍しかった白黒テレビ(みんなカラーテレビだった)を指差して
「ほら、こっちはこんなに暗いのに、この平和台球場はこんなに明るい」
と、具体例まで示して日本国内の「時差」を証明した。

晩熟(おくて)な関西女性に比べて、東京の女性は進んでいるというのが我々の常識であったので、内心
「同じ門限であっても、関東のほうが早く暗くなるから、男女関係も進行が早く、当地の女性はいきおい“発展家”になるのだろう」
と、わけのわからぬ理屈に自己満足したものである。

今日もメイルだけでなく何通か年賀状が届いた。
月曜日が7日なので、そのあたりで年賀状騒動も終わる。
子供の頃は松の内は15日までであったが、関東では7日までらしい。
気ぜわしい限りである。
昔の正月は15日までのんびりとしていたに違いない。

されど今年は子年。
ちょこまかと働く年になるのか。
たまに都会で見るねずみは猫のような大きさでギョッとする。
あれでは、猫も二の足を踏むのではないか。

関東に来て四半世紀を超えているのに、関東事情に驚くことだけは変わりない。

2008年1月4日金曜日

年賀状

年賀状なるもの、まことに厄介なものである。
虚礼廃止が叫ばれて久しいが、さりとて年賀状ごときで、不義理な輩(やから)と思われるのも理不尽なので、年内には投函するよう毎年頑張っている。
ここ数年はパソコンで管理するようになったのでずいぶん楽になったと思うが、拙宅のパソコンは図版を印刷するのに一枚3分もかかる骨董品なので、矢張りストレスがかかることには変わりない。
いっそのこと毎年親戚を一人ずつ「殺し」て喪中で逃げられれば、と年末がくると毎年思ってしまう。
かと言って、キチンと近況を報せてくるような年賀状は好感が持てるので、私は出さなくても、そういうのは寄越すべきである。
できれば、お年玉クジがいいものが当たる葉書が望ましい。(何十年も調べていないが・・・)

年賀状で毎年不可思議に思うのは、三が日に来る枚数が、私が出した枚数をいつも下回ることである。
私に年賀状を出す予定にしている人は11月中には事前に葉書で通知して欲しいものである。
そうすればその人たちにだけ頑張って年賀状を出せば済むようになる。

パソコンで住所録を管理するようになってよかったのは、“自分欄”と“相手欄”があって、そこには“出”“受”や“喪”などが入力できることである。
普段の付き合いも減り、どちらからともなく疎遠になって、数年“空白”が続くと、ああこれで年賀状を出さなくて済むと、ほくそえんでしまう。

厄介なのは、今年からはもう出さなくても大丈夫だろうと安心していると、その相手から元旦に届いてしまうことである。
先方の住所録の管理ミスだろうと、一年のあいだ息を潜めていると翌年また元旦に届いたりする。
あわてて返事を出して、出すリストに登録して、翌年に律儀に出すと、これって“返事”じゃないか?というくらいのタイミングで届く。
まことに厄介である。

お互い一年交代で“喪中”が続くと2回分は年賀状の交換がなかったわけで、もう大丈夫だろうと出さないでいると、むこうからも出して来ない。
ルーレットで当てたような爽快感がある。

互いの引越し連絡がうまくいかず、“尋ね当たらず”の返送が何度か繰り返されて疎遠になっていくケースも、美しく終息できるパターンと言えよう。

先方誰しも岐度(きっと)出来ることなら年賀状なぞ出したくない筈なので、こういったさまざまな駆け引きはあと10年は続くものと思われる。

内容で言うと、宛名と裏面すべて印刷で、一言もコメントなし、という年賀状も厄介である。
「私に出していること、分かってるのか?」
と疑いたくなる。
そんな年賀状が微妙に住所表記、例えば“1-1-1”と“1の1の1”で二枚来ることなどあると、もうこれは“無意識”で出していること必定であろう。
あとは、いまだに写真年賀状が流行し始めた80年代のように、子供だけの写真の年賀状というのも厄介である。正月早々、DNAの鑑定など勘弁願いたい。

しかし、こんなことを言っていると、本当に年賀状が来なくなるかもしれない。
来なくなるのは構わないのだが、来なくなったら細君や姫たちは必ず揶揄(やゆ)するであろうから、それはそれで厄介なことになる。
バレンタインのように、「自分で自分に」年賀状を書くはめに陥ることだけは避けたいものである。

2008年1月3日木曜日

フジヤマ

本日、自宅に戻った。
新幹線から見える富士山、秀麗という言葉がピッタリの美しい姿を見せてくれた。
数え切れないくらい東海道新幹線に乗っているが、どうしても富士山が気になる。
見えなくなるまで見送ることもしばしばだ。

朝の通勤電車の車窓からも富士山が見えることがある。
やはり見入ってしまい、大学時代のある日のことを思い出す。

上京(大学は横浜であるが、西の人間にとっては横浜も東京も同じである)して間もなく、同級生で地元出身のK子(男である。苗字である)と京浜急行に乗ったときのこと。
車窓から綺麗な山が見えた。
富士山そっくりの山だったので、思わず
「うわっ綺麗な山!富士山みたいやなぁ!!」
なぜかK子は下を向いている。
なんだ、こいつは?あんな綺麗な山に興味を示さないのか?と訝(いぶか)りながら、なおも外を指差して
「ほら、あれあれ!見てみぃ!富士山そっくり!!」
K子は、アリスのべーやん似の顔をこちらに向けて
「おい、もうやめてくれよ。あれは富士山だよ」
と、声を抑えながら一言。。。

驚いた。
富士山というのは、新幹線からありがたく拝むものだと思っていたが、まさか日常の風景に富士山があるとは思わなかった。
今でも海岸から富士山が見えると幸せな気分になる。
と同時に、K子の
「頼むから騒がないでくれよぉ」
と、目で訴える情けない顔が思い浮かぶ。

2008年1月2日水曜日

ワシらのフォーク村

『いつも見ていた広島―小説吉田拓郎 ダウンタウンズ物語』田家秀樹著(小学館)を読了。

喘息持ちの少年がやがてモンスターになる。
吉田拓郎というモンスター。
幕末の小説を読んでいるよう。
そう「竜馬が行く」を読んだときのような興奮。
「竜馬~」でもそうであったように、本書も隠し絵のように当時の「人物」が随所に。
世に出る前の森進一。
小学生の西城秀樹。
わくわく。
最後にはまだ高校生だった井庭啓子(拓郎の最初の奥さん)まで。
私が分からないだけで、きっともっとトラップがあるのかもしれない。

初恋の人に出会った時のような
そんな懐かしい
胸が熱くなる
そんな思いに
なるわきゃないじゃろが
ワシらのフォーク村

曲名は知らないが、拓郎のライブ盤で歌われた。
憶えやすいので、暗記している。

伝説の『つま恋コンサート』まで描かれているのかと思ったが、広島フォーク村の誕生秘話で終わった。
60年代の激動の時代をフォークソングの胎動を通して描いた。
いや、吉田拓郎の青春を通して。
いや、拓郎の下積み生活、苦渋、苦節を通して。
続編が楽しみな本である。

2008年1月1日火曜日

新右衛門さん

門松は冥土の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし

とんちで有名な一休宗純の歌として知られている。
元旦に棒にさした髑髏(されこうべ)をかざしながら街を歩き、上記の歌を吟じたと何かで読んだことがある。
そのエピソードを聞くだけでも、一休さんという坊主は、そのときよほど何か思うところあったのか、よほどの変わり者であったに違いない、とさすがの私も驚かざるを得ない。

後輩女子Tはアニメ『一休さん』でいつも
「いっきゅうさ~ん!一大事でござる~!」
とワンパターンで安国寺に駆け込んでくる寺社奉行蜷川新右衛門さんが好きだったという。
予備校時代の同級生で今は地方局のベテラン女子アナのI田さんは、『宇宙戦艦ヤマト』の中で好きだったのは古代進でも古代守でも徳川艦長でも佐渡酒造でもなく、デスラー総統だった。

私が好きになる女の子もみな変わり者である。