2008年4月30日水曜日

味噌餡

お昼を買いにスーパーに行った。
催事コーナーで柏餅(かしわもち)を売っていた。
もうそんな季節か。

子供の頃、端午の節句の前になると、祖父は山に入っていって柏の葉を取ってきた。
母は餡(あん)を炊いてくれて、米粉で作った餅に餡をくるんで、さらに柏の葉で包んで蒸し上げる。
今思うと、柏餅は各家庭で作るものだったし、ましてや柏の葉まで当たり前のように山から調達してきていた。
そういえば祖父は手先が器用で、年末になると家の田んぼで残った藁(わら)を編んで正月のお飾りを作っていたし、山の中のことも熟知していて、鏡餅に敷くシダの葉なども山から持ち帰っていた。

おはぎを作ってくれるときは、つぶ餡だったが、柏餅の時は決まって漉(こ)し餡だった。
であるから、今でも柏餅は漉し餡派だ。

昨年の今頃、後輩女子Kさんは、味噌餡が好きだという話を聞いた。
???
なんや、そりゃ、と思った。
播州地方には存在しない。
試しに買って食べてみた。
悪くない。
味を表現するなら“味噌味の餡が入った柏餅”だ。

お昼を買ったあとで、漉し餡2つと味噌餡1つ買って帰った。
後輩女子KさんとKちゃんに味噌餡と漉し餡、それと私に漉し餡だ。
子供のときの味覚は、そう簡単には変わらない。

柏の香りが鼻腔(びこう)をくすぐると、赤穂の山が浮かんだ。

2008年4月29日火曜日

MRI

日曜日に続いて、今日もジムに行った。
少し筋肉痛が残っていたが、頑張って行った。
今月はこれでも3回目で、週一すなわち月に4回は行かねばと考えているので、いささか不本意だ。
バイクを15分間漕ぎウォーミングアップをしてからストレッチ。
シャドウ3R(ラウンド)、サンドバッグ2Rやって、会長に声を掛ける。
「ミットお願いします」
ミット打ちを終えたら会長が
「もう1R頑張りましょう。もう物足りないでしょう」
物足りていたが、そう云われれば私も男の子だ。
「1R休みますか」
「いえ、お願いします」
ミット打ち2R終え、ウェイトトレーニングを挟み、再びサンドバッグ2R、シャドウ1Rでやっとクールダウンのロープ(縄跳び)1R。
念入りにストレッチをやり稽古終了。

『ピストン堀口道場』主催の興行が6月1日にあり、だんだん近づいてきたので、ジムはいつもの休みの日より熱気を帯びている。
堀口会長が選手に飛ばす言葉もいつになく厳しい。
張り紙があった。
“徳州会病院でMRIが受けられるように交渉したので、スパーリングをする選手は受けて健康管理に気をつけてください”
選手の引退後のことにも気を配る会長らしい。

ロッカー(と云っても扉もない本棚のような造りだが)の前で、たまに言葉を交わす若者と挨拶した。
「随分、絞ったね。確か50kg落としたとか」
「はい、150kgが今では90まで落ちました」
「そりゃすごい。もともとハンサムだし、ますます大したもんだ。欧米系の顔をしているようだが」
「はい、母がアメリカ人なので」
「なるほど。では市民権は?」
「もうすぐ選択しないといけないのですが、アメリカ国籍は捨てるつもりです」
「ほぉ」
「だって、戦争なんて行かされたら、タマんないっすもんねぇ」

戦いはリングの中だけではないようだ。

2008年4月28日月曜日

ロハ

外出からオフィスに戻り、
「嗚呼、今日はゆっくり珈琲を飲む閑(ひま)も無かった」
と、理不尽な思いに囚(とら)われながら、一杯分の濾過式珈琲と珈琲を淹(い)れたら一緒に食べようと箱から取り出した明治チョコレート2ピースを持って、夕刻に給湯室に行った。
するとさすが神の子である私の心を見透かしたように、妙齢の美女Yさんがそこにいた。

下を向いて何やら一所懸命である。
「ごきげんよう」
いつものように声を掛けた。
ハッと猫が驚いたように、Yさんがこちらに顔を向けると、手元にテプラが見えた。
このあたりがYさんのYさんたる所以(ゆえん)である。
不思議美少女(年齢はおそらく30を超えているが)なのだ。
なんで給湯室でテプラなのか、そのあたりを追究するのも野暮というもの。
不思議に思いながら手元を見ると、どうもテプラに入っていた電池を交換していたようであるが(なんで給湯室で?と訊くのも野暮というもの)古い電池をどこに捨てたらよいか逡巡していたようだ。

丁度、美人のKさんが来たのでこれ幸いに訊いてみると、電池は“燃えないゴミ”のBOXでよいとのこと。
Yさんも納得して電池を捨てた。

「Yさんって、LOHAS(ロハス)な方ですな」
と、私。
LOHASとは、少し流行遅れかもしれないが、そう云ってみた。
「えっ?こういうのをロハスって云うんですかぁ」
薀蓄(うんちく)に火が点いた。
「そう、確かLifestyles Of Health And Sustainabilityの頭文字で、健康や環境問題に関心が高い人びとのことを云うのだよ」
「あ~、LOHASのHって健康のことなんですね~」

本当はこのあたりで気づくべきだった。
Yさんは実は私よりも遥かに聡明な女性なのである。
あとで思うとすでにこのあたりからYさんは冷静に私を観察していた。
それでも美人を前にした私は続けてしまう。
「そうHは健康、Sはサスティナビリティで、昔は環境報告書なんて云っていたものが、そのうちサスティナビリティ報告書に変わって、最近はCSR報告書なんてどんどん変わりますなぁ」

もう殆(ほとん)ど、みっともないくらいのしたり顔である。
考えてみればYさんは以前は旅行代理店に勤務していたのだ。
世の中でLOHASの概念が誕生するはるか前に、LOHASな生活は経験済みだった可能性があるし、下手すると実生活は高樹沙耶よりもLOHASかもしれない。
一通りYさんに喋った私だが、底を見透かされてしまったような敗北感に苛(さいな)まれながら、給湯室をあとにしたのだった。

夜8時50分頃にオフィスを出て、東興飯店に急いだ。
入店するときに入り口に書いてある営業時間を見ると“夜9時ラストオーダー”とある。
時計は8時59分だ。
入店して
「まだ、いいですか」
と訊くと
「はい、どうぞー」
と、いつもは無愛想なおばさんが笑顔を見せた。
このまま一人残されて、ハンサムな私はどこか海外にに売り飛ばされるのではないかと少し不安になったが、食欲が勝(まさ)った。

野菜炒め単品と、少し辛めの南国チャーハンをオーダーした。
カウンターにはニラレバ炒めとライスのにーちゃん(兄ではない)が一人と、テーブル席にはおっちゃん(叔父ではない)とにーちゃん(兄ではない)二人とねーちゃん(姉ではない)の4人のグループ。
4人のグループは、一通り食べ終わり紹興酒を飲んでいる。
おっちゃんは
「だいたい、おめぇよぉ」
とか
「だから俺はよぉ」
と、どうも私の苦手なタイプにようだ。
若手はいつも大変である。

レバニラのにーちゃんが早々に食べ終わり退店して、私もやや急ぎ気味に食べてまもなく終わる頃に、件(くだん)のおっちゃんは
「おあいそお願いしまーす」
と、先ほどまでの傲慢な人が、頭でも打って何かに変身したのかと思うほどトーンの違う声で、おばちゃんに終了を告げてレジに近づいた。
あれだけ“吠えて”いたのだから、どうせ領収証だろう、と思ったが意外にも
「領収証くださーい」
とは云わなかった。
「まぁ、おっさんのストレス発散代やな」
と思っていると、おっちゃん
「じゃ、一人1000円づつ徴収ね」

えっ!

一瞬間あとに、おっちゃん
「いいのいいの!タナカちゃんはいいんだよ」
どうやら、おねーちゃんことタナカちゃんの分は要らないと云っているようである。
「いえいえ、私も払いますよ~」
「いいんだよいいんだよ!ほんとにさぁ!」
「いえ1000円くらい、私にも払わせてくださいよぉ」

この瞬間に、おっちゃんは気づくべきだった。
タナカちゃんは、割り勘にしたいと云っているわけではないことに。
“おっさんなぁ、ここ中華料理店やで。やっすい店や。こんな店でどんだけ食うてどんだけ飲んでもしれてるやんけ。それであんだけ吹いて吠えて、男の子には1000円負担せぇってか?どないな了見やねん、あんた。普通は若いモンには、タダでええでと云うのがスジやろ。ええ加減にしぃやぁ”
こうタナカちゃんが心の中で(何故か関西弁で)訴えていることに気づかないおっちゃんであった。

むかし、無料のことを符丁(ふちょう)で“ロハ”と云うことがあった。
無料(ただ)から引っ掛けて“只(ただ)”を上下ばらして“ロハ”にしたのである。
LOHASとは全く関係ないが・・・。

只(ただ)よりも高いものはないと云うが、只(ロハ)より怖いものもないのである。

2008年4月27日日曜日

生きていりゃこそ

4月25日、JR福知山線脱線事故が3年経ったことが報じられた。
あの事故では運転士は死亡してしまったが、当時は細君も
「(運転士は)かわいそうだけど、亡くなっててよかったのかもね」
と云い、私も
「そやなぁ、生き残ってたら、生き地獄やったやろなぁ」
と、知ったような会話をした。

数日後、実家(事故現場には遠いが、同じ兵庫県である)に電話をしたときに、その事故の話が出た。
母は
「あの運転士はかわいそうになぁ。親孝行のええ子やったらしいで。仕事が辛かったんやろなぁ」
と。

ハッとした。
確かにあの若い運転士が生存していたら、世間の糾弾に遭っていたかもしれない。
しかし、彼はこの世に生を受けた人間であり、親にしてみれば孝行息子であることには変わりない。
生涯十字架を背負うことになったのかもしれないが、やはり人生は生きていてこそなのである。

2008年4月26日土曜日

頑張れ、あぶさん

最近自分の新しい癖に気づいた。
新聞や雑誌などでプロファイル欄の年齢を確認することである。
小説家など創作を生業(なりわい)にしている人や、○○評論家と言われる人やJAZZ演奏家など、なんとなく自分の中で憧れを持っている人は特に。
そして自分より年上だと安心する。
自分より年下だと、“そぉかぁ”と小さく溜息のような諦念にも似たものを口から吐き出す。
そんなことを繰り返している。

子供の頃、いつも夏休み(春休みにもあるが)に見ていた高校野球。
高校球児は自分よりもはるかに年上の男たちだった。
中学生になっても、山口百恵、桜田淳子、森昌子の“花の中三トリオ”はひとつ年上だった。
高校生になったある日、高校球児が(当たり前であるが)同世代であることに気づいた。
それでもまだたくさんの“年長者”がいて安心出来た。
幸い芸能界では“花の中三トリオ”以来、目だった活躍をする人がいなくて内心ホッとしているが、他の世界ではそうもいかない。
まずは現役寿命の比較的短い角界の力士たち。
彼らの年齢にいつしか追いつき、さっさと追い越してしまった。
そして球界から引退する人たちよりも年を喰ってしまった。
いや、まだホークスの“あぶさん”がいるか。

演歌歌手の年齢も若い人が増えて、私がその世界の人間ならすっかりベテランだ。
ピーターパン症候群と揶揄(やゆ)されようと、いつまでものほほんと生きていたい。
とはいえ、あと数年で同級生に孫ができるヤツも出現するだろう。
同窓会で孫自慢か。。。
考えただけで、恐ろしい。

最後には“金さん、銀さん”みたいな世界レベルの長寿の人たちだけが私の拠り所となるのだろうな。

2008年4月25日金曜日

黄色いカップ

長野が喧(かまびす)しい。
明日、北京五輪の聖火がリレーされるからだ。

1964年、郷里の播州赤穂でも東京オリンピックの聖火はリレーされた。
しかし、あのような田舎でも本当にリレーされたのだろうか。
あの年の11月で5歳になったということは、リレーは4歳の時、記憶間違いなのではないかと時々思う。
記憶では近所に住む親戚のおじさんに連れられて、聖火リレーを見に行ったことがインプットされている。
人垣も覚えている。
ただ、聖火はまったく記憶にない。

黄色いカップの明治アイスクリームを、その辺で買ってもらって、食べたことしか記憶にない。
平和な時代の話である。

2008年4月24日木曜日

ペットボトル

「恋愛は、性欲の詩的表現に過ぎない」芥川龍之介『侏儒の言葉』より
高校の同級生K月が、自分がもてないことを逆恨みしてか、ガールフレンドのいる友人に向かって多用した言葉だ。
もちろんそんなことを云われる側の方は、むしろ余裕綽々(しゃくしゃく)である。

K月に拓郎の歌の話をしても
「音楽なんて空気の振動に過ぎん」
と取り合わない。
と云いつつ彼は月刊『明星』(今の『Myojo』)の付録である新曲の冊子に収められていた麻生よう子のデビュー曲“逃避行”(1974年日本レコード大賞最優秀新人賞受賞曲)の歌詞をコピーさせてほしいと懇願してきたが。

帰りに駅のホームで電車が入ってきたとき、手に持っていたミネラルウォータアのペットボトルが電車の音に呼応して振動した。
細かな震えを手で感じたとき、
「成る程、音は空気の振動だ」
などと感心していると、ふとそんなK月のことを思い出した。

“坂本竜馬も一人の男に過ぎなかった”
数多(あまた)ある幕末モノを探せば一ヶ所くらいそんな表現がありそうな気がする。
どうやら
「○○なぞ○○に過ぎない」
の称号を獲得するのは、
「○○と云えば○○」
の称号を獲得するよりも難易度が高そうである。

そうか、K月は本当は拓郎が好きで、それでもって彼は彼なりに“恋に恋していた”に違いない。

それにしても
「女と云えばハセキョー」
「動物園と云えば王子動物園」
「芝居と云えば忠臣蔵」
などは、世間も納得するだろうが
「性欲と云えば恋愛」
では、どうにも締まらない。

2008年4月23日水曜日

未来都市

台場に引っ越したサントリーで会合(正確には隣接する飲食店の入っているビルでだが)があり、久しぶりにゆりかもめに乗った。
新橋からお台場海浜公園まで6駅目だ。
近いようでいて、また“本土”から見て、目と鼻の先と侮っているとあとで焦(あせ)ることになる。
兎(と)に角(かく)ゆるりと走ってくれる。
思ったより時間がかかるのが、ゆりかもめだ。

しかも自動運転のくせにドライビングテクニックは結構荒い。
加速とブレーキングでガクンガクンと来るし、コーナーの攻めも案外鋭い。
まぁ、それがゆりかもめの魅力でもあるが。

それにもましてあの車窓からの眺めったら。
新橋を出てからビルの谷間を縫う感覚で、それでもってそのあたりの同じ高さにあるオフィスの様子を見せるように、そうさながらディズーランドのアトラクションのようだ。
今度はループ線方式で上昇してから向こう岸に渡るので、どっちを向いて走っているか分からなくなる。
それが迷路感覚で気持ちいい。

あの座席もあそこまで狭いと却って譲り合いの精神が出てくるのではないか。
夕闇迫る中を走るゆりかもめは実にドラマチックだ。

会合を終え夜9時過ぎにお台場海浜公園からゆりかもめに乗った。
来たときよりも早く着くような感じがする。
すっかり夜の街だ。
車内放送が
「まもなく新橋に到着します」
を告げるころ、窓から見えるのは汐留の日本テレビだ。
旅の最後を飾るに相応しい景色だ。
幻想的という言葉がピッタリくる。
そう、子供のころ想像した“未来都市”のような建物なのだ。

ゆりかもめでワクワクできるのは、私の特技かもしれない。
いや、案外“隠れ同好の士”がいるかもしれない。

2008年4月22日火曜日

東京人

“ふくお”“かしわえ”“とうとうりょく”“ひぐれさと”
もう気付いたかもしれないが、それぞれ東京都内の地名“福生(ふっさ)”“狛江(こまえ)”“等々力(とどろき)”“日暮里(にっぽり)”の私の読み間違い、上京初期の頃から5年にかけてまでの話である。

“かしわえ”などは、完全に漢字を間違っているので恥ずかしい限り。
そんな私もすっかり都会人だ。

東京駅の皇居側が丸の内だと理解している。
京橋のタイ料理『ワンタイ』に行くときも道に迷わなくなった。
『ワンタイ』に行くときの目印にしている八重洲ブックセンターを目指して電車を降りるときも、3回に1回くらいしか降り口を間違えない。
しかし八重洲ブックセンターに辿(たど)りつけば、まず迷うことはなくなった。
行きつけの神田の上海料理『竹苑』に行くときも、あの複雑な神田駅周辺であっても、降り口さえ間違えなければ2回に1回は迷わず行ける。
たとえ降り口を間違えても、店に電話をかけて總經理(そうけいり、つまり社長)の蔡(サイ)さんか美人店員の陸(ルー)さんの親切なガイドで、たいていスムーズに入店できる。
原宿の竹下通りに行くときには辺鄙(へんぴ)な方の改札を使うほうが近いことも知っている。

オフィスから見える東京タワーを見るたびに、私も東京人になったものだなぁと感慨に耽(ふけ)る。

2008年4月21日月曜日

野田岩

1970年代半ばだったか“アンノン族”という言葉が流行した。
雑誌an-anかnon・noを片手に、その雑誌で紹介された観光地に押しかけ蹂躙(じゅうりん)していったことで、古都を愛する旅行者からは随分と恐れられた。

non・noという雑誌が今でも生息しているのかは知らないが、今日後輩女子Hさんからan-anの最新号をもらったので帰りの電車で読んでみた。
雑誌は、掲載されている広告を見れば、その読者が透けて見えるものだが、ある箇所に集中して出稿されている広告を見て驚いた。
“霊視”“霊能”“予知”などの文字が、まるでかつて清里を蹂躙していったペンションのように乱立していた。
本当に乱立という言葉がピッタリなくらい、相当な数の広告が掲載されているのである。
もちろん訊いたこともない○○研究所などが広告主であるが、広告料を支払うからには、儲かっているのだろう。

そういえば、記事の内容も
~あなたは、こうあるべきなのですよ!~
~あなたは、こうだけど大丈夫!~
~あなたもこうすれば○○美人!~
などと、どこか「宗教的」である。

私も霊感の強さには自信がある。
云ってみれば、霊能者の一人である。
私だったら麻布の『野田岩』で鰻をご馳走してくれたら、何でも霊視してあげるのに。

2008年4月20日日曜日

少年探偵団

今日4月20日は、高校の時に好きだったS田さんの誕生日である。
好きだっただけで、完全に片思いで終わったことをここに付しておく。
最近の有名人で云うと、テレサテンに少し似ていた。
S田さんは、わが淳心学院の隣の女子高K女学院に通っていた、美しい女生徒であった。
そんな彼女も今日で48歳である。

高校時代に私が心を奪われたあとに、同級生のK橋も懸想(けそう)するようになり、私のライバルになった。
純粋な心の持ち主である私に比べて、K橋は少し世間にスレたところがあり、また高邁(こうまい)な志が顔に表れた私と違い、彼は軟派なところがあったので、K橋に分(ぶ)があったように思う。
そんなK橋とは、なぜか腐れ縁で、パイロットの『3776』と云う万年筆が発売されたとき、同時期に買っていたことがあとで分かったし、吉田拓郎の5本組ビデオもそうであった。
また、同じく二浪したことも悲喜劇である。

S田さんとは、渋谷で24、5年前にK橋と3人で会ったのがおそらく最後だ。
もし彼女に子供が出来ていたら、子供は最後に見た彼女の年齢に達しているかもしれない。

数年前のこと、同級生H原の姉がK女学院のOGなので、OG名簿でS田さんの連絡先を探してもらった。
あった。
結婚してN川さんになっているとのこと。
そうか。。。
K橋にある相談を持ちかけた。
「連絡取って会いに行かんか?」
「うーん、、、行こう!」
「よし決まり」
「そしたら俺が電話してみるよ」

おばさんになってしまったS田さんに会いたかった。
そして時の流れを感じて、青春の1ページを捨てたいような、心のささくれを抜きたいような、複雑な思いだった。
ほどなくK橋からメールが来た。
電話したけど、社宅っぽい反応で、確かにその番号のところにいたようだが、引越したようだったので、それ以上は訊けなかったとの由。

こうして二人の少年探偵団の企ては未遂に終わった。

私の青春への純粋な思いとは裏腹に、K橋は不倫を画策していたのではないかと思えてならない。
いや、もし娘さんがいたら、そこに照準を定めるつもりだったのかもしれない。
未遂に終わってよかったのだ。
いや待てよ、K橋のことだから、本当はあの電話番号で合っていて、一人でさっさと会いに行ったのかもしれない。

こうなったら、一人少年探偵団である。

2008年4月19日土曜日

はい、さようなら

年明けに読み始めた『世に棲む日日』司馬遼太郎著(文春文庫)全4巻を読了した。
途切れ途切れに読んでも、集中力は途切れないくらい読み応えのある内容だった。
長州(いまの山口県)の吉田松陰の生い立ちから始まり、やがて登場する高杉晋作の活躍が描かれ、明治維新という「革命」が長州人の独特の気風と高杉という天才によって開始されたことが、よく分かる面白い本であった。

この本で最も印象的だった箇所が4巻目にある。
革命成功が見えたあとに、高杉は高位高官を求めるのではなく、その場から去ろうとする。
曰く
「人間というのは、艱難(かんなん)は共にできる。しかし富貴は共にできない」

昨今、「その場の雰囲気を読めないだめなやつ」という意味で“空気読めない”の頭文字KYなる言葉が跋扈(ばっこ)している。
高杉にしても松陰にしてもまた坂本竜馬にしても、もし彼らがKYでなかったら、空気を読んで幕藩体制に安住あるいは諦念してしまっていたら、維新回天は屹度(きつと)実現していなかっただろう。

27歳8ヶ月で天に召された高杉は、多くの人が見守る病床で辞世の句の上の句を書いた。
おもしろき こともなき世を おもしろく

ひととき高杉をかくまって世話をしたこともある女流歌人野村望東尼(ぼうとうに)は続けた。
すみなすものは こころなりけり
高杉は満足して絶命したと云う。

おもしろき こともなき世を おもしろく 生きて愉しや はいさようなら

破天荒な高杉の生涯を読んでみて、私ならこう詠んだだろう。

2008年4月18日金曜日

鹿威し

昼近くだったか、同級生でNHK大阪放送局の住田アナウンサーから携帯にメイルが来た。
“電車遅れたとのこと、大丈夫?”云々と『返信』が来た。
こっちは“なんで住田から?????”である。

あっ!

今朝、強風で電車が遅れた。
オフィスの関係者数人に少し遅刻する旨のメイルを送ったのだが、何のことはない、送信先を一人間違えて住田君に送ったのだった。

こういうのを世間では“そそっかしい”と云うのだろう。
それにしてもこの“そそっかしい”にしても“慎重居士(しんちょうこじ)”にしても、それぞれの性質(たち)と云うものは、なかなかに治らないものである。

私が後輩女子Kさんを好きなのも、このそそっかしさ故(ゆえ)である。
Kさんは宇宙人なので、地球ではある意味居候(いそうろう)であるので、地球人に対して兎(と)に角(かく)優しい。
であるから、地球人の殿方は概してそそっかしいのだが、私を含めてすぐに勘違いしてしまう。
そして定期的にその甘い夢から覚めざるを得なくなる。

今夜もそうであった。
後輩O君を出汁(だし)にしてKさんと3人で、『わいわい』にお好み焼きを食べに行った。
全盛期のアランドロンのように甘い言葉で求愛したものの、毎度のごとく一笑に付されてしまう。
そう、鹿威(ししおど)しから水が流れて、カッコーンと鳴るように、夢から覚める瞬間である。

明日からまた優しいKさんは、鹿威しに水を注ぎ始めてくれる。

何日かすると、またそそっかしくも“カッコーン”と私の夢は砕け散る。

2008年4月17日木曜日

阿修羅のごとく

昼、出席者15人ほどの小さな会合に出た。
会場は日本工業倶楽部なので、昼食に出る弁当が上品なのはよいが、量が少なくてこまる。

左隣のネイムプレイトを見ると‘出井伸之’とある。
SONYの元会長の出井さん、今は会社を起こされてクオンタムリープ株式会社の社長である。

声をかけた。
「あっ、どーも。いつぞやは六本木のジンギスカンではご馳走になりました。」
去年だったと思うが出井さんがご馳走してくれると云うので、きっとワインなぞ飲ませるお洒落な店だろうと思っていたところ集合場所が六本木の『くろひつじ』だったので、招かれた10人ほどはみな意表を突かれた格好になり愉快であった。
名刺をいただいたところ、SONYの時はシンプルな名刺だったが、今はカラフルな名刺で、まるでベンチャー企業の社長だ。
さすがである。

少し雑談して食事を終え会合が始まったが、健康のためなのか、半分ほど残されていた。

SONYの社長時代、男の色気を持った人だなぁと思っていた。
ああいう顔、そう、云うならば興福寺の阿修羅像のような顔が昔から生理的に好きである。
他には例えば渡哲也、山口百恵、藤本義一、最近では相武紗季が“阿修羅顔”か。

初めて出井さんと会って挨拶したのは1998年の5月なのでかれこれ10年前だが、名刺交換の時に“抱き締められたい”と禁断の誘惑に駆られたのは、後にも先にもこの時しかない。

2008年4月16日水曜日

苦情は・・・

駅のホームに、私が好きな後輩Kさんに少し似ている娘(こ)がいて
「あっ、かわいいな」
と思った。
おそらく昔ならああいうタイプには、それほどときめかなかったと思う。

自分好みの女の子を好きになるのは当たり前だが、先に女の子を好きになって、するとそのタイプが好みになるってことはないだろうか。

Kさんは芸能人で云うと真矢みきに似ている。
すると、以前はそうでもなかったのに、テレビで真矢みきが出ると、何かしていても手を止めて、凝(じつ)と見入ってしまったりする。

以前は鈴木京香が好みで、そのころ好きだった女の子がなんとなく似ているなと思っていたりしたのだが、振られてしまうと鈴木京香に前ほどは執着しなくなる。
心なしかテレビ出演も減ってしまったのではないか。
鈴木京香もいい迷惑であろうが、苦情は私を振った女性にお願いしたいものだ。

2008年4月15日火曜日

TDL

TDL、こと東京ディズニーランドが今日で開園25周年とのこと。
ということは、1983年か。
大学4年生のはじめだ。
まったく気にも留めなかったのか、記憶に残っていない。
就職活動をやりはじめたのは夏だったので、そのせいでもない。
屹度(きっと)貧乏だったのだろう。

それでも1984年の春休みは銀行に駆け込んで借金を申し込み、卒業旅行と称して2週間の米国西海岸旅行と洒落(しゃれ)こんだ。
“お約束”のようにアナハイムにあるディズニーランドにも立ち寄った。

帰国して密かに期待した。
誰か訊(き)いてくれないだろうか。
「もうディズニーランド、行った?」
すると私は勝ち誇った気持ちを抑えつつ答える。
「ああ、行ったよ。でも日本のは、まだやけどね」
この完璧なシミュレーション成立の機会を凝(じつ)と待ったが、結局誰も訊いてくれなかった。

横浜の上大岡のホルモン焼き屋には毎週のように通ったが、そもそもディズニーランドという柄(がら)ではなかったことが誤算だった。

2008年4月14日月曜日

恐ろしいもの

昨日は2週間振りにジムに行ったので、今日は頗(すこぶ)る体が痛い。

久しぶりにジム行く時は足取りも重いが、矢張(やは)りジムに着いてしまうと気合が入る。

懐かしいような汗臭い匂いと響き渡る音楽、そして3分経ったことを知らせるブザー。
30秒休憩のあとにまたブザーで3分間がスタートする。

リングに上がる。
白いカンバスには血の跡が所所に着いている。
新しい血痕、古い血痕。
兵(つわもの)どもが夢の跡。
恐ろしいものだ。

リングでシャドーのあとは、サンドバッグだ。
4回戦ボオイの練習を横から見る。
痩(や)せっぽちな体だ。
ワンツーのあと、繰り出す左フック。
重いサンドバッグが、ビシリと悲鳴を上げる。
恐ろしいものだ。

ストレッチを終え、そのあたりに置いていた自分のグローブとタオルを拾い上げる。
ふと目の前に、選手が共用するヘッドギアが吊り下がっているのが見えた。
「しまった!」
と思ったその瞬間は手遅れだ。
この世のものとは思えない悪臭が私を襲う。
恐ろしいことだ。

2008年4月13日日曜日

人の恋路を邪魔する者は

京都、染井吉野はもう過ぎたが、山桜、枝垂桜は見ごろとのこと。

京都というのは、不思議な街。

京都人の意地の悪さを表現するのに決まって語られる話。
京都で人の家を訪ねて、そろそろ帰ろうとすると
「まぁ夕飯でも食べていってください」
と、言われる。
「いえいえ、そろそろお暇(いとま)しないと」
「いや、そんなこと言わんと食べていっておくれやす」
「いやいや、もうほんまに帰ります」
「まぁ、そんな遠慮なんかしたらあきませんえぇ」
「いや、遠慮なんて、そんな。もう帰らなあきませんのや」
「いや、そんなことゆーても、もう夕飯の準備もしてるんですわ」
「えっ?そうですかぁ。ほんならご馳走になりましょか」
という会話のあと、京都人は慌てて夕飯の準備をして、客人が帰ったあとに
「常識のない人や」
と陰口を言う。

あとこれもよく語られる話。
京都に他所(よそ)から嫁いだ人が、朝起きて表の掃除をしようとすると、隣の奥さんが
「やぁ、おはようさんどす。ごゆっくりどすなぁ」
と言う。

これらは、よくある“都会のなんとか伝説”のように、まことしやかに語り継がれているが、真偽のほどは定かではない。

そんな住むには難渋しそうな京都であるが、旅行者には魅力的な街である。
私も小学校時代は毎年夏休みになると山科の親戚宅でひと夏過ごして、もともと常識のない私は、人の家のご飯が美味しい性質(たち)だったのでいつも太って帰ったものだ。
高校時代には朝起きて母に
「ちょっと京都行ってくるわ」
とフラリと出て行ってユースホステルを拠点に大原や嵯峨野を巡ったものだ。
尼寺ではないのだが、女性の駆け込み寺として有名な直指庵(じきしあん)がブームになったのはその頃で、嵯峨野も随分混んでいた気がする。

京都と言えば(主に)夏の“風物詩”の一つに鴨川河川敷のアベックがある。
鴨川の三条大橋から四条大橋までの川縁(かわべり)にアベックが座るのだが、それが見事に等間隔になっているというやつである。
一度テレビの企画が何かでやってもらいたいのだが、大勢のアベックを雇って、ドドーンとあそこに投入して、等間隔に座っているアベックの間をアベックで埋めてしまうのだ。
そうすると“本物のアベック”はどうなってしまうのだろう。
是非見てみたいものである。
アベックはどうなるかは別にして、私は馬に蹴られて死んでしまうことは間違いない。

2008年4月12日土曜日

禁煙

自戒や願掛けを目的にして禁煙した、という話をたまに耳にするが、それはフェアではないし、それで願いが叶えようというのも虫のいい話である。
なぜなら禁煙をするのは、健康のためであって、辛いことをしてでも頑張ろうという発想ではないからである。
事実、多くのスモーカーは本当はタバコを止めたがっている。

もし本気でやるなら本当に好きなことを止めなければならない。

私なら、毎年やっている多額の寄付や、海や山を掃除するボランティアや日々楽しくてしょうがない仕事や家庭での炊事洗濯がそれに当たる。
あとは毎年のモナコグランプリの観戦や、豪華客船でのバカンスや、世界各国の閣僚との晩餐会などを中止しないと、誰も私が本気だとは思ってくれないだろう。

うな丼や寿司やお好み焼きを断つことや、DVDを二度と観ないことや、前から歩いてくる女の子をチェックすることを止めるなど、誰でも簡単にできることでは駄目なのだ。


[註]
多額の寄付・・・コンビニでつり銭をレジにある寄付の箱にたまに入れる
掃除ボランティア・・・犬の散歩でフンを持ち帰っている
楽しい仕事・・・仕事中、たまに意味不明の笑いを発する
炊事洗濯・・・たまにやらされる
モナコG観戦・・・テレビ観戦
豪華客船・・・屋形船
閣僚との晩餐会・・・報道ステーションを見ながらの晩飯

2008年4月11日金曜日

捜査一課

S新聞社の敏腕記者、富山美人のT記者と京橋にある行きつけのタイ料理『ワンタイ』で会食。

大きな企画でお世話になったので、打ち上げと称しての飲み会だ。
記者に限らないことだが、性格がよく頭の切れる人との会話はリラックスできる。

されど事前情報は必要と、昨日彼女のブログに目を通したところ、匂いに敏感であるとの記述があり、タイ料理を選択したことを少し悔やむ。
汗かきの私は辛い料理が出たら頭から汗が吹き出すに違いない。
つまらぬことを気にする私を尻目に、彼女は気持ちいいくらいにぐいぐい飲み、精力的に食べてくれる。

それにしても、美人は近くで見ても美人なのが美人の美人たる所以だ、と改めて思った次第。
それはそれでありがたいのだが、なんといっても彼女が“活字好き”であることは、私にとってはなんともありがたく、そういう人は人生の友たりえる。

社会部志望だった彼女が記者になり、念願叶い事件を追い掛けていたが、そこで“特殊な人”を取材する立場から、図らずも経済部に異動になり彼女自身と同じ“仕事人(しごとじん)”や“数字”を追い掛ける立場になった。
移る前は、経済を無味乾燥な世界と紋切り型に考えていたというが、経済そしてその裏にある数字は全て“人”が織り成すもの、と軽快に看破する。
プリンシプルのある人は強い。
そうして彼女は上司も太鼓判を押すやり手記者になった。

そういえば様々なジャンルの人間を取材した彼女が、客観的に私を見ると、普通のビジネスマンには見えず、刑事、しかも一課の刑事に近いとのこと。
一課の扱う事件は、殺人、強盗、放火、誘拐、強姦、強制わいせつ等の重要犯罪である。
サツ回りの経験も豊富な彼女によると、一課の刑事には強面(こわもて)の人は案外少なく、多くは軽妙洒脱なタイプで、そういう人がズバッと切り込んでいくのだそうだ。
なんとも面映ゆいが、せめて一課の刑事にお世話にならないようにすることが、彼女に対し義を通すことになるだろう。

2008年4月10日木曜日

ほな、また

高校友人H原と夕刻に芝の東京プリンスホテルで待ち合わせた。
H原が常務を務める会社が、ある政治家のパーティー券に付き合わねばならず
「2枚買ったから来ないか?」
とのこと。
久しぶりに会いたかったし、まぁ一応食事も出るからと御成門へ。

さすが、大きな派閥だけあって、すごい来場者数。
H原は、この手のパーティーは初めてで
「すごい人やなぁ」
と驚きつつも
「あっちで“揖保の糸”(播州地方の有名なそうめん)があったで」
と目ざとい。
まずは、そうめんで腹ごしらえ。
そして立食ではお約束の寿司コーナーへ。
混雑(><)
なにせ来場者は“付き合い”で買わされたパーティー券なので、半分腹いせのような感じでバクバク食べる。
ステーキのコーナーには3、40人の行列。
「そんなにまでしてステーキ食べたいかのぉ」
などと話しながら、中華を少し食べてやっと一息つきワインなぞ。

やはりこの手のパーティーでガツガツ食っても、心の胃袋は満たされない。
以心伝心で、どちらからともなく
「外で飲みなおすか」

地下鉄で大手町に行き、たまに行く『エスカール アビタ』へ。
ビールで乾杯。
互いに疲れているようなので早々に散会。

「ほな、また」
と挨拶して35年。

2008年4月9日水曜日

レストルームズ リアリズム

ダイハード、ターミネイター、ゴルゴ13、ダヴィンチコードなど、映画にしても劇画にしても小説にしても心躍る作品は多い。

しかし!
あの主人公たちは、いったいいつ下(しも)の用を足しているのか?
人間は定期的にトイレに行かなければならないのだという現実を踏まえて、それこそ想像力を働かせて映画や劇画や小説を楽しむことも必要だ。

そうすると矢張り理論的に無理があるような展開例が見受けられる。

どんなに緊迫した場面が続くストオリィであっても、トイレタイムがあってこそのリアリズムだと思うが。

2008年4月8日火曜日

缶コーヒー考

4連休明けの仕事は辛い。
ほとんど拷問である。
しかも強い雨で電車が遅れる。
どうせなら昼まで不通になってくれれば、ゆっくりとスタバで読書ができたのに。

オフィスをうろうろしていると、向こうから自動販売機が呼んでいる。
「なんやねん?」
と近づくと、
「そうかぁ」
と思う。
缶コーヒーを含めてお茶など全部の商品が“COLD”になっている。
“HOT”が消え去った。
自販機は春を告げていたのである。

キリンの自販機に新しい缶コーヒーが入っていた。
新製品は飲んでみる主義だ。
購入する。
冷たい。
缶コーヒーの飲み頃は、夏でも冬でも“室温”だと思っている。
喫茶店の珈琲を目指してもらってもこまるのだ。
「珈琲が飲みた~い」
と思ってもないときに急場をしのぐのが缶コーヒーの役割である。
安っぽいカレーを食べた後に、飲みたくなることもあるのが缶コーヒーだ。

給湯器のところに行って、熱湯を出し、火傷をしないよう注意しながら缶を温める。
室温まで温度が戻ったら飲む。
新製品はやはり美味い。
初期のUCC缶コーヒーの味を彷彿とさせる。
昔の駅の売店に缶コーヒーを置き始めた頃は、室温だったと思う。
自販機も冷蔵一辺倒ではなく、環境にも配慮するとかなんとか理屈をつけて、室温の飲み物も提供して欲しいものである。

2008年4月7日月曜日

Calendar

本日は二姫の高校入学式に参列してきた。
さすがに私立だけあって設備がきれいである。
学食もある。
わが母校淳心学院を思い出す。
カレーライスは90円だった。
ここはカレーライスが300円、大盛りが400円。
世間から言うと安いな。
おっと、あまりに退屈だから携帯電話に出るふりをして会場から抜け出したが、これ以上うろうろしていると、細君にばれてしまう。

会場に戻った。
ああ、もう少しで終わる。
苦痛である。
二姫の晴れ姿を見ようとの思いはあったが、入場でチラと見えたらもう終わりだ。
広い会場ではどこにいるのか分からない。

急に4月のスケジュールが気になりカレンダーがないか見渡した。
体育館にあるはずがない。
あっても壁に掲示していて、遠くて見えないだろう。
携帯電話をわざわざズボンのポケットから出すほどでもない。

あっ!
そういえば、昔は腕時計のベルトに巻きつけるカレンダーがあったな。
あの軟鉄でできたような、指で折り曲げて取り付けるあれ。
確か生命保険会社のサービスで配っていていたようなあれ。
あれってどうなったのだろう。
最近見ない。

携帯電話の普及で廃止になってしまったのか。
そもそも欲しがる人が少なかったのか。
時代とともに消滅するものはいろいろあるけれど、あれなんて消滅したことさえ歴史に残らないのではないか。
いや、ひょっとしてまだ細々と残っているのか。
気になる。

まぁ、もしまだあったとしても、字が小さすぎて用をなさないが。

2008年4月6日日曜日

ミュンヘンへの道

昨日、姪っ子(小学校6年生)のバレーボール教室の見学に行った。
高校生と違い、さすがに見学に来ているお母さんがたは、若くて精神衛生上好ましい。

あまり期待せずに行ったのだが、案外みな上手くて驚いた。
バックトスなどもさまになっていて、ちゃんとバレーボールになっている。
サーブなど鋭く、私などちゃんとレシーブできるか怪しいものだ。
見慣れぬ私を怪しい男と思ったのか、お母さんがたが偵察を兼ねて休憩時間にはお茶まで出してくれて頗(すこぶ)る気分がよい。

何年か前にルールが変わって、サーブ権がなくても点数が入るようになった。
なんでも試合進行の迅速化と、ある程度終了時間が読めるようにとの配慮からそうなったと何かで読んだ気がする。
以前のルールでは、サーブ権がある側にしか点数が入らなかったから、サーブ権が変わるだけでなかなか点数が入らないことがあった。
しかし、それがバレーボールの魅力だったと思うのだが。
あのルールがなければミュンヘンオリンピックで伝説になった対ブルガリア戦での奇跡の大逆転はなかったであろうし、当然敗者復活で勝ち上がっての東ドイツとの決勝もなかったし、東京で銅、メキシコで銀に続いてのミュンヘンでの金もなかったと思う。
見学に来ている若いお母さんがたはそんなことは知る由もないだろうが。

北京オリンピックには間に合わないバレーボール少女たちを眺めながら、1972年のミュンヘンオリンピックを思い出すかつてのバレーボール少年に、最後にコーヒーが供された。
私は美味しくいただき、悠然と体育館を後にしたのだった。
ELT(Every Little Thing)の持田香織似のお母さんの顔を思い出しながら。

2008年4月5日土曜日

『赤穂民報』

播州赤穂に帰省している。
最新の『赤穂民報』(新聞に折り込まれる地元のフリーペイパア)に目を通した。
見出しにこうある。

~赤穂で初めての歩車分離信号設置~

意味が分からないので記事を読む。
なんのことはない、車の信号が赤になってから青を表示する歩行者専用信号を設置して歩行者の安全を図ることにしたとのことである。

まぁ、確かに赤穂市内では、なぜこんなところに信号があるのだ、と訝(いぶか)りたく場所がたくさんある。
そんな地域なので、いままで歩行者専用信号がなかったのは決して不思議ではない。
赤穂市の公式ホームページに、2008年2月末現在の人口は51,771人とある。
私の記憶に間違いがなければ、ここ40年ほど殆ど変化がない。
それくらいのどかな街なので、元来静かで安全なところなのだが、それでも車が増えてきたのか、お年寄りが増えてきたのかもしれない。

それにしても「赤穂で初めて~」は、衝撃的な見出しである。

30年ほど前、神戸YMCA予備校に通っていた頃、神戸に住む従兄弟が
「赤穂民報は面白いからたまには読ませてくれ」
と言ってきたので
「そうかなぁ」
と、思いながら一部渡すと、従兄弟は宝物を発見したように目を輝かせながら
「ほらほら、これ見てみぃ」
と、私に見せた。
「ほら、この広告!“赤穂に本格的パブ誕生”やって!わっはっはっはっ」

郷土愛の強い私であるが、その広告を笑う従兄弟を咎(とが)める気持ちは起きなかった。

2008年4月4日金曜日

五七五

20歳も年長の大先輩Mさんに最近俳句の校正を頼まれるようになった。
五七五の限られた文字数で季語も入れなければならないため、なかなかにおもしろい。

昨日Mさんが泉岳寺に行かれた際、地下鉄泉岳寺駅から出てきた人に、泉岳寺までの道を聞かれたとのことで、教えてあげたことを句に詠もうとされていた。
“国訛(なま)り”という言葉も入れようとされていたので、道を聞いてきた人はおそらくMさんと同郷の九州の方だったのかもしれない。
泉岳寺は4月1日から義士祭(ぎしさい)が始まった。
浅野の殿様の命日の3月14日の旧暦に合わせているのだろう。

どことです こちらとですよ 義士祭(ぎしまつり)

義士祭は春の季語であるが、、、、
(><)素人が作るとこうなる。。。

それにしても時々俳句のことが心配になる。
何故なら基本的に俳句は17文字であるから、いつかは新作が生まれなくなってしまうのでないかと思うのだ。
スーパーコンピュータを駆使して、

あああああ あああああああ あああああ

から、始めて、50音を組み合わせていって

んんんんん んんんんんんん んんんんん

までで理論上は出尽くすはずだ。

勿論、字余りや字足らずも考慮しなければならないので、さらに増えるが、日本語として成立していなければならないので、かなりの句数は捨てることができる。
また季語も入っているかどうかで、メッシュがかけられる。
それでも、屹度(きっと)膨大な数になるのだろうな。

野畔(あぜ)の草 召し出されて 桜かな

特攻隊員と鹿児島の知覧で彼らを見守って特攻の母と呼ばれた鳥浜トメさんのことをモチーフにした『ホタル帰る』赤羽礼子・石井宏著(草思社)には、こう解説されている。
~平時であれば自分は一介の野の草だが、特攻兵に選ばれて桜になることができた、というこの辞世の句は、原田栞(しおり)少尉の作で、いま自筆の短冊が知覧の特攻平和会館に展示されている。~
私はこのように胸を衝き上げるような句に出会ったことがない。

俳句を50音の組み合わせだ、と考えること自体、無粋の極みだ。

2008年4月3日木曜日

NOVA

先日、訳(わけ)あって通勤定期を新たに買い求め、古い6ヶ月定期を駅の窓口に出した。
前日に改札の駅員に聞いたら、有効期間が1ヶ月以上残っているので、一部払い戻しができる筈で、翌日にみどりの窓口に行ってくれとのことだった。
それで行ったのだが、答えは
「払い戻しはありません。6ヶ月定期は割引率が高いですから、計算しましたけど、払い戻せませんね」
とのこと。
釈然としなかったが、JR相手に文句を言っても、モト国鉄なので埒(らち)が明くはずもない。
「あっ、そ。えっ?定期?処分しといて」
とだけ言って立ち去った。

6ヶ月で13万円くらいする定期である。
しかも、あと1ヶ月以上も乗れるのにである。
その定期をどこかに落とせば、不正ではあるが、確実にその人間はかなりの長距離を1ヶ月以上自由に乗り降りできる。
その「貨幣価値」がまだあるはずなのに、払い戻しゼロはどうにも腑に落ちない。

昨年だったか、英会話学校NOVAの回数券の残りの払い戻しが少なすぎるからもっと払い戻せと判決が出た。
結局NOVAは消滅してしまった。。
あの騒動を聞いていたとき、どうにもおかしいと思った。
大量に購入すれば安くなるのは資本主義の大原則だ。
それなのに、残ったものを払い戻してくれるのに、その額が安いというのは理不尽ではないか。
今回のJRの定期券に比べれば遥かに良心的だ。

なんか、NOVAに対する国策での摘発のような気がしてならない。

それにしても、定期券の払い戻しを期待して、そのお金で駅前グルメを狙っていたのに、本当に悔しい。

2008年4月2日水曜日

プラシーボ

久しぶりに自分のデスクに戻ると、書類の山の中にNewsweekの今週号と、、、先週号があった。
こういうのは一寸(ちょっと)悲しい。
こういうときは、今週号にはとりあえず目を向けない。
目を向けた瞬間に先週号は古本になるからだ。

で、帰りの電車で先週の4月2日号を読む。
表紙の見出しは“肥満が犯罪になる日”
そりゃ、近いだろう。
電車やバスの料金は、大人料金や子供料金というふうに、生まれてからの経年で決められているが、畢竟(ひっきょう)なんらかの動力エネルギーで動く乗り物なのだから、体重で差をつけるのが理に適(かな)っている。

本号の中のON SCIENCEというコーナーに“かくもミステリアスな偽薬の世界”とある。
偽薬、すなわちプラシーボについて書いてある。
よくある話では、「この薬はよく効く薬だよ」と“うどん粉”を処方されて飲むとすごく効いたというあれである。
心理学ではプラシーボ効果という言葉もあって、私の生涯の研究テーマのひとつでもある。

近年は、産地偽装が流行したが、あれもプラシーボ効果の一種と思えば、そう腹も立たない。
毒を盛るのはいけないことだが、適当な牛肉を偽装してもたいがいこんなものだろう。
「これ松坂牛ですよ~」
「うひゃぁ、そりゃすごい」
「ねっ、美味しいでしょう?」
「うん、さすが松坂牛!」
これでいいではないか。
売り手も買い手もハッピーである。
そしてばれれば信用を失うのであるから、まぁやるほうもギャンブルみたいなものだし、やられたほうも博打でをスッたみたいなものだ。

スナックでテーブルについた女の子が、どんなにストライクゾーンから外れていても、ママさんから
「この娘(こ)は、この町一番の美人なのよ」
と言われれば、それはもう主観の問題であるから、諦めて自らプラシーボ中毒になるしかない。
そういう「効用」もあるのがプラシーボだ。

しかし好きな女の子に
「私は昔はもてたのだよ」
「私って真田広之に似てると思わないか」
「このレストラン、飲んで食べても一人3000円くらいで、一見居酒屋のように見えるけど、実は高級店でね」
などと、いくらプラシーボ投法を駆使しても通用したことがない。
プラシーボは、また処方が難しいのだ。

2008年4月1日火曜日

水戸黄門

尾籠(びろう)な話で恐縮であるが、昨日飲んだバリウムがどうやらほぼ体外に排出されたようである。
私の体は普通の人よりも高度に進化して、腸が長く出来ているようなので、普通の人よりも異物の排出に時間がかかる。

もう20年くらい前だろうか、バリウムを飲んだ後、水分摂取を甘く見たために、恐怖の体験をするはめに陥ったことがある。

出ないのだ!
もう頭を掻(か)き毟(むし)るようにして、もがき苦しんだ。

やがて「日の出」を迎えた。
痛い!

一時退却を試みた。
痛い!

攻めるも地獄、守るも地獄である。
攻めるしかない。

攻めた。
やはり地獄であった。

出た。

直腸の型取りをすることになるとは思わなかった。
爾来(じらい)、神経質なくらい水を飲み、検査後にもらうピンクの小粒2粒は必ず摂取するようにしている。

固まらないバリウムを発明したら、随分と喝采を受けると思うぞ。
なぁ、助さん、格さん。