2008年3月31日月曜日

Skyscraper

今日は年に一度の人間ドック。
今年も新宿にある東京医大。
高層ビル街のほぼ真ん中に位置する。

1975年、初めて上京しあのビル群を見た時の驚きと言ったら。
あまりにも高いビルばかりに驚き、ずっと空を見上げていたら一緒に来てた同級生のF原が
「おのぼりさん丸出しで恥ずかしいから止(や)めてくれ」
と、言うが
「いやぁ、これが噂のスカイスクレイパァかぁ」
と意に介さず見続けたものだ。
中学の時の英語の教科書にニューヨークのSkyscraperに関する記述があり、訳は摩天楼。
直訳は“空を引っ掻く”
なんやそら?という感じで、摩天楼になるとさらに意味が判らなかった。
新宿に来てその意味がわかったのだ。
確かにビルが空を引っ掻いている。

それでも1987年、初めてニューヨークに行った時には新宿との桁違いのビル群に仰天し、
「そうか、これはほんまに空を引っ掻いとるなぁ」
と“本家”を見て納得した次第。

10年以上、この季節になると、いつもそのことを思い出しながら歩く。

2008年3月30日日曜日

花は桜木

桜が満開である。
花見の季節である。
不思議と目を奪われる。
魅力的な花である。
花?
花という感じがしない。
桜は、木か。
梅も木のような。
花というものは、柔らかい茎に咲いていてこそ、花という言葉がしっくりくる。
私だけだろうが。
何故だろう。

『同期の桜』という有名な軍歌がある。
♪咲いた花なら散るのは覚悟、見事散りましょ国の為♪
桜の散り際の潔(いさぎよ)さをモチーフに、“さぁ軍人さん、未練がましいのはいけません。桜のようにパッと散りましょう”と戦場に行く人を鼓舞した歌(だと思う)だが、最近その矛盾点に気づいた。
そう、桜は確かに潔く散るけれども、一年後にはまた咲くのである。
次の年も、その次の年もである。
春になると忘れず咲く。
これは潔いというよりも、むしろ強(したた)かである。
人びとが「そろそろかなぁ」と思ったころには、ちゃんと仕事をする、そう、竹内まりやや桑田佳祐みたいな、強かさを感じる。
いずれにしても、桜を潔さの象徴にするのはおかしなことである。

今でも、上野公園では乱痴気騒ぎをするのだろうか。
若い社員に場所取りをさせるような会社がまだあるのだろうか。
そうだとしたら、桜にとっては不本意だろう。
桜はそういう花見を好まないような気がする。
私の花見は専(もっぱ)ら“たまたま派”だ。
歩いていてたまたま見えるか、電車の車窓からたまたま見えるか。
それでも一度やってみたい花見は、穴子の押し寿司をアテに赤ワインを飲みながらする花見だ。
今でもあるのかどうか分からないが、西武池袋百貨店の地下食品街にあるテナント『瀬戸』の穴子の押し寿司は美味だ。
関東では珍しいちゃんとした焼き穴子が乗っている。
焼き穴子には、重めの赤ワインか日本酒なら濃い味の、、、そう!『磯自慢』か『田酒』が合うような気がする。

軍歌だ、酒だ、と言ってみても、桜に一番似合うのは学校だろう。
その年によってまた地区によって、卒業して行く生徒を見送る桜もあれば、入学を祝う桜もある。
どちらも本当によく似合う。
絵になるのである。
ずいぶん昔のことだが、新学期はアメリカに合わせて9月にしてはどうか、などという議論が起こったことがある。
何故そんな議論が起こったのか、よく分からない。
冬に受験するよりも、夏の明るい季節にするほうが受験生の自殺が減るのではないかなど、冗談にもならない意見もあった。
そんな議論は不要である。
新学期の境目には矢張り桜が必須である。

そうか。
桜は木に宿って、毎年児童や生徒を見守っているのかもしれない。

2008年3月29日土曜日

揺れるまなざし

電車の車内でふと見上げると不自然な空間があった。
一箇所吊り広告がない。
なくなったのか、元からなかったのかは判らない。

初めて上京したとき、電車に乗って網棚の上にまで広告が貼られていて驚いた。
関西では、大阪や神戸のような都会でも見たことがなかった。
そんな些細なことだが、花のお江戸の購買力に感心したものだ。

アナログ文化の1970年代は、有名人のブロマイドやポスターといった紙媒体が華やかなりしころで、電車の吊り広告にアグネスラムや真行寺君枝などが出ているとよく盗まれたものだ。

今日の車内のあの空間はなぜ生まれたのか想像を巡らせた。
あそこにいたのは誰か。
長沢まさみか、ハセキョーか、小雪か、上村愛子か、オグシオの小椋か、天気予報の市川さんか。
案外かわいいトイプードルだったりして。

「ポスターなんて」
と、思われてしまう、豊かで成熟した世間より、
「おおっ!あれええやん!」
という劣情で、たまに盗まれてしまうことがあるほうが、ある意味健全な気がする。

2008年3月28日金曜日

座敷、恐るべし

屋形船で花見と洒落(しゃれ)込んだ。
勝どきから船に乗る。
「あっ」
そうか、掘りごたつ式ではないのか。。。
座敷である。
苦手である。
正座がまず辛い。
早速、別に座布団を2枚調達してきて3枚敷いて足を伸ばす。
まるで“笑点”だが、これで足が少し楽になるのだからしょうがない。

宴会が始まり、早速恐怖の瞬間がやってきた。
そう、他の卓からのお酌である。
まだ自分の卓の中でゆるりと注(さ)しつ注されつならよいが、他の卓から
「やぁやぁ、どーもどーも」
なんて調子でやってこられて、お酌されるのはどうにも苦手だ。
まず、そういう輩(やから)は初期はビール片手にやってくる。
乾杯の時にビールを飲んで、もう十分なのにビールを持ってこられては選択肢がない。
暫(しばら)くするとお銚子など持って来る。
自分の杯(さかずき)は持参しないので、そのあたりの適当な杯を使っている。
オー!ノー!と叫びたくなる。
ご返杯とか言って、私の杯を取られたりする。
最悪だ。

隅田川の河川敷は桜が満開だ。
そこかしこに屋形船が停泊している。
キュートなKさんに誘われて屋形船の屋根に上がる。
船から見る夜桜は初めてだが、幽玄な世界が広がる。
肌寒いが、Kさんの純真な瞳と向こうに浮かぶ夜桜の組み合わせは格別だ。

船内に戻る。
矢張り・・・
そう、「民族移動」が始まっていた。
元の席順は殆ど関係なくなっている。
こうなると、もう自分の箸は誰かに陵辱(りょうじょく)されている可能性もある。
もしY君が使っていたらどうなるのか。
ジステンバーでも伝染(うつ)されたら大変だ。
私はそういう病気に抵抗力を発揮する自信がない。
幸い、私の席には大好きなKさんが座っていたので、自分の席に戻る動きを見せて、隣に詰めて座った。
ただこういう幸運はあくまでも例外である。

船内で揚げられた天麩羅が運ばれてくる。
屋根に上がる前に自分でセットしておいた天つゆの器が見当たらない。
岐度(きっと)斜め前のK君が使っている器がそうだろう。
折角(せっかく)多めに大根すりを入れて、おろし生姜も少々入れて万全の体制を敷いていたというのにガッカリである。
穴子の天麩羅が出てきたときに、上から天つゆをかけ、刺身で余っていたワサビを少々乗せて食した。
美味である。
この食べ方ができたのは、K君に天つゆの器を略奪されたせいか。
小さな小さな、悲しいくらい小さな収穫である。

2008年3月27日木曜日

オッケー!

『月刊ゴルフダイジェスト5月号』の電車吊り広告の見出しに
“オッケー!がもらえるピッチ&ラン”
とある。

ゴルフでホール近くまで球を寄せた時に、いくらなんでもあと1回のパターで入るよな、と対戦相手が判断して宣言するのが“オッケー!”である。
これがもらえるような、ホールへの寄せ技術の特集だろうか。

しかし、この“オッケー!”が許されるのは1ホールごとに勝ち負けを決して合計勝ち数を争うマッチプレイだけのはずなのに、一般ゴルファーがラウンドするストロークプレイでも宣しているのを聞いたことがある。

いちいちホールアウトしていたら遅くなるから、とプレイの迅速化を気遣っているようでもない。
安くもないプレイフィーだ。
多少時間はかかっても、とことん愉しまねば勿体無い。

“オッケー!”と自分で宣言するやつまでいるのにはこまったものだ。
そんな輩に限って、その“オッケー!”分の1打を足していなかったりする。

それにしても、である。
どんなにホール近くまで寄せたとしても、あのカップインしたときの“カッコン!”がゴルフの醍醐味ではないのか。

何年も行ってないけど。

2008年3月26日水曜日

鎖国

幕末物を読んでいて思うことがある。
現代(いま)の日本の荒廃ぶりを見ていると、鎖国は解くべきではなかったのではないか、という思いに囚われる時がある。
もちろん幕藩体制の瓦解は避けられなかっただろうが、今の政治の無力、官僚制度の疲弊を見ると、庶民が苦労するのは日本国のDNAかもしれない、、、、
なぞと、つい厭世(えんせい)的なことを思ってしまう。

定年退職の挨拶にみえた元美人記者のKさんが
「あと何年かしたら定年はきっと70歳になるわよ」
なんて私に言ったからだ。
(>_<)

江戸時代の平均寿命は50歳とか55歳なんて、何かで読んだことがあるが、あれは言葉のギミック(からくり)ではないかと思う。
江戸時代やそれ以前にも、90歳100歳まで長生きした人の記録はあるのだから、55歳なんていう平均寿命は当時医学の遅れのために早世した多くの乳幼児を入れて計算したのではないかと疑ってしまう。
55歳よりあとの余生は江戸時代と同じなのに、その年で楽隠居できるどころか70歳まで定年延長とは、走っても走ってもゴールのテープが遠のくみたいなもので、まるでドリフターズのコントである。

2008年3月25日火曜日

葛飾北斎

わが家のキッチンにはテフロン加工のフライパンがふんだんにある。
戯れに数えてみるとザッと8枚もあった。
いろいろな大きさが取り揃えられているかというとそうでもなく、用途別に購入したわけでもなさそうであることは、供される料理からも分かる。

私がいつも強火で料理することに対して細君は
「そうやって強火で使うからテフロンが駄目になっちゃうんでしょ!」
と文句を言うが、強火でテフロンのフライパンを傷めることと、フライパンが溜まっていくこととはそれほど関係ないように思う。
開いた牛乳パックの山や冷蔵庫に死蔵されている食品群を見ると、どうも細君には“収集癖”があるようだ。

ちなみに私の「婿入り道具」とも言える中華鍋は、大学時代から使っているので、もう四半世紀を超えるが今でも現役だ。
もう一枚、これも鉄製のちゃんとした平たいフライパンも購入して20年近くになるが、使ったらすぐにタワシでお湯洗いして、強火で一気に乾かすことを怠らないので、使うほどに味が出る。
両方とも細君は焦げ目を付ける料理以外には好んでは使わないようで、専(もっぱ)らテフロンだ。

葛飾北斎は、浮世絵を描きまくって家が汚れると引っ越すことを繰り返して、生涯での引越しは90回を超えたという。
テフロン加工のフライパンを見ていると、細君は葛飾北斎の末裔かもしれないと思えてきた。

2008年3月24日月曜日

ごくろうさま

年明けから幕末の吉田松陰や高杉晋作など長州の人々の活躍を描いた『世に棲む日日』司馬遼太郎著(文春文庫、全4巻)を読み始めたのに、いろいろな読み物や雑事に忙殺され、第一巻を読んで中断していた。
この週末からやっと第二巻を読む気になり再開した。
やはり幕末モノは面白い。

吉田松陰と言えば、松下村塾の塾長として有名である。
彼の主義としては授業料は取らなかった。
それは彼が武士としてちゃんと藩から禄(ろく)を食(は)んでいたからである。
ただ本書によると、当時の藩校や寺子屋などでは、珍しいことではなく、むしろ授業料が不要であるからこそ“師弟”と言えるとのことである。
なるほど、目からウロコである。
だからこそ公務員としての小学校の先生は先生であって、我々とは師弟関係であったのだ。

授業料を払うならそれは商行為である。
私立の学校はビジネスだから、先生は生徒に「毎度おおきに」と言わねばならない。
柔道や空手の師範も、書道や算盤(そろばん)の先生も同じである。
偉そうにふんぞり返っていられてはこまるのだ。
むしろ経営努力をしてもらわないとこまる。

ピストン堀口道場の会長の母上は、時々店番(という雰囲気を醸し出している)をされている。
いつもニコニコとやさしい笑顔で迎えてくれる。
あの母上に限っては、とてもボクシングジムという雰囲気ではない。
だから敷居が低い。
会員証を出すと決まって
「はい、ごくろうさま。頑張ってね」
あの一言はいい。
師弟関係の師匠側の立場を残しつつ、ちゃんと商いとしての律儀さを表現している一言だ。
それに「ごくろうさま」は、ある種、プロ選手に掛ける声の転用とも取れなくはない気がして、そこがまたくすぐられるのである。

2008年3月23日日曜日

ドミノ倒し

電車車内で初めての感覚。
鼻の奥で液体がドミノ倒しのように、ツーッと伝う。
あわててティシューを出すも鼻から出た水滴が読んでいた新聞の上に落ちた。
花粉症ではない!
くしゃみはひどく、目は孫の手で掻(か)きたくなるくらい痒(かゆ)いが花粉症ではない。
花粉の影響はあるかもしれないが、決して花粉症ではない。
なぜならこれに近い症状は、花粉が多かったと言われる数年前にもあったが、その翌年から症状は改善された。
なので一過性のアレルギーに過ぎない。
私はこの症状を花粉症とは断じて認めないのである。

それにしても考えてみたらドミノって何のためにあるのだろう。
まさか倒すためではあるまい。
屹度(きっと)何かゲームの道具のような役割があるのだろうけど、もしドミノメーカーがドミノ倒しを考えたとしたら大したものだ。
記録を競うために、どれだけ売上に寄与していることか。
将棋の駒のメーカーは臍(ほぞ)を噬(か)んでいるに違いない。

2008年3月22日土曜日

だらし

仕事が休みの日、至福の愉しみはパジャマのまま過ごすことである。
起きて窓を開けて深呼吸をする。
一杯の水を飲み、ゆるりと新聞などに目を通し、果物を食す。
そうしてブランチを食べる。
食後は何か甘いものと珈琲である。
そこまでやって、やっと着替える気になる。

しかしそんな私に対して細君は
「もう!だらしないわねぇ!!」
と叫ぶ。
「だらしない?つまり“だらし”という物質が地球上にあって、それがなくなっ・・」
「あ~、もう!うるさいっ!」
細君は学究肌ではないので、どうも私の“だらし理論”については興味がなさそうである。

2008年3月21日金曜日

100

川崎の“ラゾーナ川崎プラザ”4Fにあるイタリアンレストラン『RISTORANTE RUBY Sopraffino』を訪ねた。
9人の大勢の会食など久しぶりだ。
しかし、川崎も随分と垢抜けした店が出来たものだ。
映画館のチネチッタが出来たときも驚いたが、矢張り川崎は川崎だった。
しかしここはひょっとしたらいよいよ川崎が川崎を脱皮するトリガーとなるかもしれない。

ワインを傾けつつ、愛くるしい後輩Kさんに尋ねた。
「彼氏との愛情を100とすると、私はちなみにいくつかね?」
「え~っ?!マイナスですよぉ!!だって私にとっては母と同世代ですから、そんな対象には見れませ~ん」
「うっ!母上は何歳だね?」
「52ですよぉ」
すかさず後輩O君が
「あっ、同世代だ!」
「えーい!うるさい。ではKさん、イボイノシシを、そう、たとえば30とすると・・・」
すかさず後輩O君
「動物より昆虫と比べた方がいいんじゃないっすかぁ?」
「分かった!じゃ、フンころがしを30とすると私はいくつかね?」
するとKさん
「そりゃぁ100ですよぉ」
「ほぉ、そうかそうか」
すかさず後輩O君が
「じゃ、フンころがし3匹には勝ってるけど、4匹揃(そろ)ったら負けるってことじゃないっすか」

遅れてきた愛らしい後輩Sさんに尋ねた。
「彼氏との愛情を100とすると、私はちなみにいくつかね?」
「もちろん100です!」
Sさんほど、いい女はいない。
確信した。

えっと、ところで今日の会合の趣旨はなんだったっけ??

オー!
O君の送別会だった。

2008年3月20日木曜日

いかなごの釘煮

昨日は、図らずも好きな情景や状況を自分の中に発見した一日だった。
“雨で煙る景色”“駆けつけるさま”“携帯の電波が悪い”の三つである。

オフィスのある都内は生憎(あいにく)の雨、夕方にもなると視界の悪さは増す。
高層ビルから見える景色は煙っている。
「煙る」
なんといい響きなのだろう。
霞(かす)んで見えるビル群に明かりが滲(にじ)む。
美しい。

約束があったので早々にオフィスを飛び出し、銀座に向かう。
東京湾の安全を守る会社に勤めるS木君と高松のテレビ局のアナウンサー艶女(アデージョ)I田さんに会うためである。
この3月で3人が神戸YMCA予備校を卒業してはや29年だ。
I田さんがキー局の日本テレビに出張だったので約1年半振りに集まることにした。
銀座8丁目にあるスペインバル『マルコナ』に予約した時間7時半より5分ほど早く入店した。
ほどなくS君も到着。
I田さんは局での仕事次第ということで、しばし野郎二人で旧交を温める。
日本レコード大賞にまだ権威があった頃だから、かなり前の話だが、あの頃はレコード大賞と紅白歌合戦が連続する時間編成だった。
紅白歌合戦のオープニングの時には、会場に揃(そろ)っている歌手はもちろんいたが、レコード大賞の会場から駆けつける歌手もいて、その様子も中継されていた。
その慌しさが、なぜか格好よく思えたものだ。
だから8時半頃にやっと駆けつけてくれたI田さんが眩(まぶ)しかった。

I田さんは道に迷ったみたいでS木君の携帯に電話を寄越してきた。
S木君は外へ迎えにいった。
I田さんは到着するなり私に向かって
「もう、メールしたのに、なんで迎えに来てくれへんのよぉ」
と29年前と同じように膨(ふく)れっ面(つら)で睨(にら)む。
「えっ、メール?来てへんよ」
すると美人の店長
「あっ、ここ電波状態が悪いんですよ、すみません」
まぁ、こんな時はこまるが、携帯の電波が悪いというのは“おいしい”。
世間と遮断してくれるのだから、現代の贅沢だ。
うん。

楽しいときは、時計は意地悪だ。
長針短針ともに駆け足で進む。
自然、神戸の話で盛り上がる。
いかなごの釘煮(くぎに)という関西では有名な佃煮は美味い!という意見は一致した。
I田さんはいかなごの釘煮とキャベツか何かの千切りをマヨネーズで和(あ)えてトーストに乗せるともう絶品なんて話をしていたが、和えるのがキャベツだったのか記憶が曖昧なので確認せねばならない。
生粋の神戸っ娘だったI田さんの言葉に、ときどき讃岐(さぬき)の訛(なまり)が入り、時の流れを感じる。
11時過ぎになり店を出た。
美人店長から名刺を兼ねた店のカアドをもらう。
宮本慶子さん。
“けいこ”という名前でブスに会ったことがない、とあるラジオ番組でチンペイさんが言っていたが同感だ。
ソムリエ(JSA認定)チーズアドバイザー(CPA認定)とある。
店に一人で来ていた場違いな中年男が二人いたが、ワインやチーズ目当てではないのは明白だ。

店を出たところで、互いに思い出したようにS木君と名刺交換をした。
I田さんにも渡そうとすると
「えっ?別に名前が変わったわけじゃないよね(笑)そしたら連絡はちゃんと取れるからええよええよ」
そういえば、20代30代の頃は名刺の肩書きを競い合っていたような気がする。
ビジネスに関係ない同級生などとの名刺交換は、つまらぬ虚栄心を満たすための儀式だった。
この年齢になってやっと肩書きなど関係なく、ただ時間を共有したい人と会うだけだ。
それでも条件反射のように名刺交換するのは、オトコの未熟な証左だ。
I田さんは虚心坦懐に巧(たく)まざる諫言(かんげん)をしてくれた。
もちろん本人はそんなこと毛の頭ほども思っていないだろうが。

I田さんは傘を持っていなかったのでS木君と私が傘を差し掛ける。
おもむろにS木君は
「近くの店で、また正月の挨拶に行ってない店があるから行ってくるわ」
と、中年のいやらしい微笑を浮かべて銀座の街に消えていった。
さすが給料の高い会社である。

I田さんは品川プリンスホテルに宿泊とのことで、新橋から東海道本線で品川まで一緒に行く。
私も一旦下車してホームで見送る。
「じゃ、また」
近くで互いに振る手が、かすかに触れた。
屹度(きっと)I田さんは振り返るだろうから、階段の下から後ろ姿を見送る。
I田さんは、踊り場で見返りこちらに手を振る。
あと一回振り返るのは分かっていたので、そのまま後ろ姿を追う。
階段の一番上に辿(たど)りつき、視界から消える地点でこちらに大きく手を振った。
29年前と全く同じ笑顔で。

帰宅して冷蔵庫を開けると、実家の母からいかなごの釘煮が届いていた。

2008年3月19日水曜日

ホームカット

久々にウィークデイにジムに行くことができた。
汗をかいてスッキリした気分だ。
夕食を摂ってから行くと、屹度(きっと)気分が悪くなるだろうから、平日は遅くなることは覚悟の上で、空腹のまま行くことにしている。
そして終わったあとは茅ヶ崎駅前のミスタードーナツに行く。
頼むのは、いつもの“満腹セット”だ。
チャーハンとラーメンに飲み物が付く。

しかし、毎回思うのだが、このセットを食べて満腹になったことがない。
とんかつ屋に行けば、キャベツと丼めしをおかわりするので、ミスドーのセットくらいでは腹がくちく(満腹に)ならないのはしょうがないのかもしれない。

とはいえ“満腹”の看板は下げてほしいものだ。
“小食の人は満腹になるぞ、セット”とか。

まぁいいか、10時過ぎてからあまり食べるのもよくないな。
シュガーレイズドも我慢しよう。
オールドファッションも我慢しよう。
最近、ホームカットがなくなってしまって寂しい。
ホームカットとオールドファッションの区別が付かなかったが、その両方とシュガーレイズドをおかわり自由の珈琲と共に食べるのが幸せだったのに。。。

2008年3月18日火曜日

安心禁物

人生において安心は禁物だ。
私の現在の身長は173cmである。
安心してなければ私の身長は180cmまで伸びていたはずだ。

中一入学のとき143cm、中二でも147cmだった。
かなり小さい。
それが中三から高一にかけて、中一からすると30cm伸びて173cmになったのだ。

父はそうでもなかったが母は
「これからの男は170cmは最低でもないと結婚相手を見つけるにも…」
と気を揉んでいたので、私の身長が170cmを超えたときは安心したようだった。
不覚にもここで私は安心してしまい、まだまだ身長を伸ばそうという気持ちを途切らせてしまった。

しかし世は“180cm時代”に入ったような気がする。
いや、男がそれだけ大きくなったのではなく、女が大きくなったのだ。
いきおい男が女に釣り合おうとすると、どうしても180cm要る。
そうして進化論的に男も大きくなったような気がする。

とはいえ男が女の腕につかまっているような、“ノミのカップル”も世に増えてきた。
それも世の流れかもしれない。
しかしながら
「もうこれでもいいや」
と人間まで小さくなってはいけない。

須(すべから)く安心禁物だ。

2008年3月17日月曜日

男の後ろ姿

基本的に階段は一段飛ばしに昇る。
人と一緒の時はそうもいかないので、階段では歩き方がぎこちなかったりする。
前にのろい集団がいたとする。
お年寄りや赤ん坊連れなら納得してゆるりと歩くが、若い集団などがのんべんだらりと歩いていたりしようものなら、テール・トゥ・ノーズ※で前を窺(うかが)うミハエルシューマッハ状態だ。
※レース中に、前車の後部(tail)と後車の前部(nose)が触れそうなぐらいに近づいて走行すること

高輪口から品川駅に上るエスカレーターは大学教授の手鏡事件で有名になってしまったが、その横にある階段なぞは、途中に踊り場が二ヶ所もあって気分はパリダカのスペシャルステージだ。
突入のタイミングを間違えると、踊り場と階段の“魔の端数”の罠にはまり、一段飛ばししても大して早く昇れず間抜けな思いをする。
では突入のタイミングを覚えておいて毎回そうすればいいではないかと言われそうだが、記憶力がないのでいつも新鮮な気持ちで楽しんでいる。

モトクロスやF1レースにおけるコースのライン取りは、レーサーにとってタイムを縮められるかどうかのテクニックの見せ所だが、私の階段昇りにとっても、一歩目から飛ばすか一歩目は普通に昇るかと瞬時に決めて、いかに突入するかはライン取りと同じくらいの見せ場である。

階段に命を懸けているそんな後ろ姿をたまに知り合いに見られることがある。
かなり怪しい姿らしい。

2008年3月16日日曜日

乳と卵

第138回 芥川賞受賞作の『乳(ちち)と卵(らん)』を読了した。
最近の芥川賞受賞作を読むのは『蹴りたい背中』以来だ。
文藝春秋はよく読むので、芥川賞が掲載される同書であるから、もっと読んでもよさそうなものであるが、選考委員の石原都知事ではないが、どうも読み始めても辛口の感想しか思い浮かばず途中で止めてしまう。

世間で流行っている曲に付いて行けず、未だにフォークソングで心が癒される脳みそだから、新しい小説を理解できる筈もない。

『乳と卵』も、前衛的な演劇を訳知り顔で観る輩(やから)の読むものか、邦画の失敗作にありがちなサイケデリックで退廃的な言葉の羅列のように思えてしまった。
思考回路が足踏みしている。
いけないことだ。
本作はアクタガワショウなのだ。
しかも作者が美人だ。

大人しく時代小説や昔の純文学を読んでおこう。

2008年3月15日土曜日

21世紀論

実家の母から荷物が届いた。
荷物の他にいつも入れてくれるものがある。
「赤穂民報」という赤穂市内で新聞に折り込まれる毎週土曜日発行のフリーペイパーだ。
3月8日号の中には浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)を偲ぶ企画が催されることが紹介されている。
そう3月14日は、元禄14年(1701年)の江戸城松の廊下での刃傷事件により切腹を命じられて35歳で没した、赤穂藩の殿様であった浅野内匠頭長矩公の命日である。

彼の辞世の句は暗記している。
かぜさそう はなよりもなほ われはまた はるのなごりを いかにとかせむ

桜散る木の下でこの句を詠み、腹を切る姿はさまざまな“忠臣蔵”で描かれている。
1701年の3月14日は旧暦なので、新暦で言うと4月21日。
この年は桜前線の動きが少しばかり遅かったのかもしれない。
ということで昨日は“新暦の3月14日”だったが、国道15号線から泉岳寺に向かって一礼した。

18世紀から300年以上愛され続ける忠臣蔵。
実に不思議な気分とともに、モト赤穂市民としては面映いような気持ちも交錯する。

金曜の夜、CXのニュースJAPANで滝川クリステルさんを堪能したあとのスポーツニュース「すぽると」が好きである。
フローラン・ダバディーというフランス人が出てきて、決して完璧とは言えない日本語でニュースキャスターを務めている。
髭面(ひげづら)で、派手な服装でいながら、極めて真面目にコメントする。

改めて21世紀を実感する瞬間である。

2008年3月14日金曜日

逃げるにしかず

昔、空手を習っていたころ、空手の先生がこんなエピソードを話してくれた。

子供に他の流派で空手を習わせてるって言う、あるお母さんがこう言うんですよ。
「うちの息子に空手を習わせているんですが、空手の先生が“絶対にケンカに使っちゃダメだ”と言うらしいんですが、うちの息子はいじめっ子から“お前、空手習ってるんだってなぁ。じゃぁ使ってみろよ”と言っていじめられるらしいんです。息子は先生の言いつけを守って我慢してるので、しょっちゅうケガして帰ってくるんです」
これっておかしいですよね。
これじゃ、なんのために空手習ってるかわかんないっすよね(笑)
空手は自分を守るためでもあるんすから。
空手習ってるから我慢していじめられるんだったら、空手やめてケンカしたほうがいいですよ。

笑い話のようであるが、本当の話である。

しかし先生は続けて言った。

でもねぇ、それは子供の話であって、大人はよほどのことがない限りケンカなんかしちゃいけませんね。
だってケンカしようとする相手は、ひょっとしたらキックボクサーかもしれませんから。
ケンカに巻き込まれないで、うまく逃げるために、空手習ってるって考えるくらいでいいんすよ。

至極正論であろう。

確かに相手はキックボクサーどころか、飛び出しナイフを持っているかもしれないし、妖刀村正をMr.マリックさんのようにどこからか出してくるかもしれないし、実はルパンⅢだったらワルサーP38を懐に忍ばせているし、バッタに似ているなぁと思ったらひょっとしたら仮面ライダーかもしれないのだから、矢張り“逃げるにしかず”である。

2008年3月13日木曜日

ほんの

歩きタバコをする女性を見て驚愕したのは、ほんの20年くらい前のことだった。
しかし今はけっこう見かける。

ほんの30年くらい前、茶髪にする女性は「接客業」の女性くらいだった。

マニキュアも大して変わらぬもので、やはり芸能人などあくまでも「特殊」な人たちのするものであった。
だから料理番組に出てきたゲストがマニキュアを付けていると、視聴者を慮(おもんぱか)って司会者は
「ゲストの○○さんは、次の仕事でどうしてもマニキュアが必要で」
と言い訳をしていたものだ。
ほんの四半世紀くらい前の話である。

マニキュアが当たり前でなかったころ、藤本義一氏は
「女性は爪を染めるべきではない」
とテレビで発言していた。
氏によると
「爪の赤いのは赤鬼だけです。子供はそれを本能的に怖がる。だから昔話では赤鬼の爪を赤くして、子供が恐れる存在にしていた」
とのこと。

踵(かかと)を固定していないミュールなる履物が数年前に流行したときも少し驚いた。
パコパコと階段を下りている姿は痛々しくさえあった。
あれは「店内」で履く衣装だったはずである、ほんの10数年前までは。

「武士の日本語」野火迅著(草思社刊)を読んだ。
前書きには“たった150年の昔に、髷(まげ)を結って袴(はかま)をはき、腰に刀を帯びた武士たちが往来を闊歩していた”とある。
そんな武士たちが本音と建前を使い分けるために、あるいは武士の本分を守るために、またやせ我慢をするために、「武士言葉」を駆使していた。
それらを網羅した面白い本だった。
そんなかわいくも誇り高き愛すべき男たちがほんの150年前に存在した。

私も武士言葉を駆使したいものだ。
「大儀である」(ご苦労さん)
「これはしたり」(これは驚いた)
「恐悦至極」(とてもうれしい)

本書には出てこなかったが昭和53年のNHK大河ドラマ『黄金の日日』で、「懸想(けそう)する」(異性に思いをかけること)という言葉を聞いたことがある。
茶髪もマニキュアも今は「市民権」を獲得した。
しかし、やはり電車などで黒髪で爪も染めていない女性、そういう人(もちろん美人に限るのだが)を見ると憧憬にも似た感情とともに懸想してしまうのである。

とはいえ、武士言葉で私が常用できるのは「手元不如意(てもとふにょい)」くらいか。。。
(註)ちょっと持ち合わせが・・・

2008年3月12日水曜日

重力異常

後輩美女Kさんから
「また小さくなっちゃって」
と言われた。
誤解しないでもらいたい。
体のことである。

どうもいま地球には重力異常が起きているようだ。
実は私はある使命を帯びてイスカンダル星から地球に派遣されている。
私のように特殊任務に就いている人間にはわかるのが、体が小さくなるくらいのGが加わっているようだ。

その証拠にここ数年体がだるいし、公園で木の枝を狙ってジャンプしても、以前は届いていた枝に届かなくなった。
階段を一段飛ばしで駆け上がることが億劫(おっくう)になってきた。
ジーンズの似合っている女性が遠く前方に歩いていても、気合で早足で近づこうと思うことが5回に3回くらいになった。

これは、なんとしてでも地球を救わねばならない。

『宇宙戦艦ヤマト』の古代守役の声優であった広川太一郎氏が3月3日に亡くなっていたと3月9日に報じられた。
私とは逆に地球を救うために宇宙戦艦ヤマトでイスカンダル星に向かった古代進のおにーさん役であった人だ。
ご冥福をお祈りする。

2008年3月11日火曜日

了解しました

「いったい何を了解したのだね?」
と突っ込みたくなることがしょっちゅうある。

メールである。

だいたい、メールなんてものは送ったらほぼ消去する。
受信しても内容が分かった時点で消去する。
また返信が必要なときも、返信したらそれでこと足れりなので、来たメールも送ったメールも一緒に消去する。
つまりそこで忘れる。

だからメールで返信が来て
「了解しました」
と書いていても、何を了解されたのか分からない。

まぁ、いいか。
了解したみたいだから。

はい、こちらも了解しました。

2008年3月10日月曜日

かわいい

私は外を歩いているとよく「かわいい♪」と声をかけられる。
特に若い女の子からが多い。
努めて男らしく振る舞っているつもりだが。
時には、おばさんからも、そしておじさんからさえも。

決まって犬を連れているときだが。

みな犬に向かって言っているような気がしないでもないが、しかし犬が言葉を理解するとはまさか思っていないだろうから、やはり私に言っているのだ。

ひとつその路線で行ってみるのも悪くないか。

2008年3月9日日曜日

元少女

ロス疑惑の終章とも言える三浦和義氏のサイパンでの逮捕にマスコミは騒然としている。

沢木耕太郎氏が1986年に書いた日記風エッセイを再録した『246』(スイッチ・パブリッシング刊)に、当時小菅の東京拘置所に収監されていた三浦氏とのやりとりが何箇所か記されている。
雑誌の企画か何かであろうか、沢木氏はスタジオで三浦氏とサド役の女とのSM写真の撮影に立ち会った。
後日、三浦氏は個人的にサド役の女に連絡を取ってきて、自らを肉体的にではなく、心理的にいじめることを懇願したという。
女は応えてやった。
そして女の中に、三浦氏を愛する気持ちが芽生えたという。

ある夜中に女が沢木氏に電話を寄越した。
いろいろ話した後に女は尋ねる。
「・・・・・吐いちゃうかな、あの人」
「吐かないだろ」

そして沢木氏は、こう記している。
ふと、吐かないでほしい、という思いがよぎった。
実際に妻殺しに関与しているにしても、いないにしても。
いや、本当に関与していればいるほど、吐くべきではない。
彼は娘のためにも沈黙を守らなければならないのではないか。
もし、彼が口を割ったら、ひとり残されることになる娘は、「父に殺された母」と「母を殺した父」を、一度に持つことになってしまう。
彼が口を割りさえしなければ、ただ単に「殺された母」を持つ少女に過ぎないのだ。
彼は娘のためにも沈黙を守り通す義務がある・・・・・。

最近の週刊誌の見出しによると三浦氏の娘は27歳になったという。

裁判は、「元少女」を“稀有な少女”にするのか、“単なる少女”にするのか、決めることになるだろう。

どちらにしても27歳になった元少女は、現実を直視しなければならない。

2008年3月8日土曜日

カンパリーソーダとフライドポテト

2006年4月24日発行の『原宿新聞』(Web版)の見出しにこうある。
~70年代原宿の象徴 「ペニー・レイン」が復活~
記事には“原宿の伝説的ロックカフェ「ペニー・レイン」が、来月5月2日復活する”とある。

ビートルズの『ペニー・レイン』を店名に1974年にオープンしたロックカフェで、同年末に吉田拓郎が『ペニー・レインでバーボンを』を発表してからは、修学旅行生の人気スポットにまでなったらしい。
拓郎ファンの私も当然旅行や受験で上京したときには訪店し、その後も何度か足を運んだ。
『原宿新聞』によると、原宿はその後80年代に入りローティーン好み中心の街に変貌してしまい、84年には拓郎をして“もうペニー・レインには行かない”と原宿との決別宣言までさせたとのこと。
そして“ペニー・レイン自体も固定ファンが徐々に離れ、70年代原宿の象徴とも言える同店も、1990年にはその役割を終える形で閉店した”とあった。

10数年前だったか、ケーキ好きが高じてフランスにまでパティシエール(パティシエは男)修行に行った愛くるしいFさんをT崎氏と誘って原宿で会食をした。
その折にペニー・レインに行ってウンチクを傾けようと狙ったのだが、原宿駅からキディランドに行く手前の路地を曲がったところにすでにペニー・レインはなく、時の流れを感じたものであった。

1977年発表の拓郎のアルバム『大いなる人』の中に『カンパリーソーダとフライドポテト』という曲が収録されている。
1978年か79年頃に高校友人F原君とペニー・レインを訪れた際に、一度はカンパリーソーダなるものを飲んでみようと思い注文した。
しかし、言葉の勢いというか「カンパリーソーダと・・・」と、あとつまみを注文しなければと思いつつ「フライドポテト」と続けてしまった。
店の女の子に、クスッと笑われたことで救われた気分になった。

昨夜、後輩O君と約一ヶ月振りに『ふくべ』を訪ねた。
いつものように梅錦(愛媛)と〆鯖(しめさば)を頼んだ。
なんだかワンパターンのようであったが、この組み合わせは譲れない。
それにO君にこの組み合わせを奢らせようと公言していたせいもあり、美少年(熊本)や住吉(山形)、塩辛には目もくれず迷わず注文したのだ。
ふとペニー・レインで「カンパリーソーダとフライドポテト」を注文した時のことを思い出した。

常連客から織田信長と渾名(あだな)されている店主は、そんなことを知る由もなく、ちょうどよい塩梅(あんばい)の燗をつけてくれた。

2008年3月7日金曜日

肝と肝臓

帰宅が遅くなると、駅から出て少し行った曲がり角の向こうでたまに飲酒運転の検問をやっている。

今日も曲がり角手前でエッチラオッチラとUターンする車がいたので、やってるなと思ったらやっぱり検問をやっていた。
あれだけ騒がれても飲酒運転する輩(やから)は後を絶たないようである。

しかし、検問は警官二人でやっていたが、あれはフォーメーションが悪いな。
検問はバイトでも雇って適当にやって、Uターンする車に目を光らせることができる場所に「プロ」を一人配置すべきであろう。
善良な市民がいちいち止められているのだから、確実に飲んでいるあのUターン車を検挙して欲しいものである。

飲酒運転手の肝(きも)を冷やさせてもアルコールは分解しないのである。

2008年3月6日木曜日

分母と分子

私は統計というものを基本的に信用しない。
なぜなら、なんだかんだいって統計などというものは、ある「意図」をもって作られているからである。

最近、とあるパーティに出たら呆れるほど食べ残しが出ていた。
ニッポンの食料自給率の低さが云々されるが、その計算式の分子にいったいあの食べ残しは入っているのだろうか。
子供の頃に山で食べていた自生のアケビやサトウキビは入っているのだろうか。
ギャル曽根のような大食いは分母から除いているのだろうか。
怪しいものである。

逆にあまりに低いのもヤバイじゃないか、なんて役人が気を回して、私が食べない納豆などスーパーに並んでいるからという理由だけで分子に算入しているなんてことはないだろうか。

ますます怪しいものである。

2008年3月5日水曜日

冷凍マンモス

3月3日、10年来の付き合い(交際ではない)で、今は豪州留学中の熟女Hさんに一日遅れで誕生日おめでとうメイルを送った。

遅ればせながら、誕生日おめでとうございます。
そっちの気候はいかがでしょうか。
岐度、暑いのでしょうね。
蒸し暑さがないので快適でしょうが。
当方はやっと寒さが和らぎはじめたかな、という感じ。
おでんや鍋物もそろそろ店じまいかな、という寂しさと女の子がそろそろコオトを脱ぎ始めるなぁという期待感が交錯して、人の出入りも激しくなる、ますます情緒不安定になる季節到来です。
(原文ママ)

Hさんは最初珍妙な思いで読んだらしい。
“女の子がそろそろオトコを脱ぎ始める”だと?と
で、オトコではなくコオトと分かって、“なんだ、そう云うことか”と思ったとの由。

まさか“オトコを脱ぎ捨てて”一人で生きる決意をする年代でもないよな、、、、
と思うので、単に読み間違ったんだろうな。

私はと云えば脱ぎ捨てるもなにもない、“寒~い”冬であり、氷河期であることに変わりはない。

2008年3月4日火曜日

ローリング30

旧知の友人で艶女(アデージョ)のアナウンサーI田さんからメイルがきた。
出張で上京するから会いましょうとの由。
互いに神戸YMCA予備校の卒業生なので、関東にいる仲間にも声をかけることにした。
同校を出たのが昭和54年なので来年の3月で30年になる。
だから年末には卒業30周年の同窓会を開催せねばならない。
その打ち合わせも兼ねられるので、いいタイミングだ。

しかし、、、卒業30周年である。。。

30歳ではないのだ。

2008年3月3日月曜日

PSP

昨日、二姫がPSP(プレイステーションポータブル)なる小型のゲーム機を購入した。
高校進学も決まり、貯めていた小遣いから拠出したようだ。
ずいぶんと喜んでいるようで、犬の散歩も早めに切り上げて帰って来たので、欲求不満の犬を再度私が連れ出すことになった。
確かに最近は電車の中でPSPに夢中になっている輩(やから)をよく見かける。
岐度(きっと)流行っているのだろう。
一姫もリビングで充電のため鎮座しているPSPを見て
「へぇ~っ!」
と、しげしげ見ている。

私が子供のときに買ったロンメル(戦車)のプラモデルは1,500円という超高級品で、キャタピラも一つずつ組み立てる優れものだった。
本当に本当にうれしかった。
自転車も、これを買ってもらうと決めたものは、毎日毎日自転車屋さんに行って
「これ僕が買ってもらうから」
と、おっさんに他の客に売らないようプレッシャーをかけていた。
自分のものになったときは有頂天だった。
デパートの食堂に連れて行ってもらってオムライスを食べさせてもらったときも嬉々としていた。

一姫も二姫も幼児の時は別として非常にクールになった。
クールというよりも、矢張り豊かに慣れてしまったのかもしれない。
十勝のおはぎを買ってきても、銀たこのたこ焼きを“どうだぁ!”と見せても表情を変えない。
「ハワイは楽しかったねぇ♪」
と言っても
「もう忘れちゃったよ」
ブラウン管とはいえ、横長のテレビを買っても、何もなかったように今までと同じように見ている。

しかしPSPには目を輝かせた。
彼女たちにとっての「三丁目の夕日」はPSPなのか。

2008年3月2日日曜日

悲しみは駆け足でやってくる

1969年、アン真理子という歌手が“悲しみは駆け足でやってくる”という自身の作詞の歌を歌ってヒットした。

一番の歌いだしは
~明日という字は明るい日と書くのね~

~あなたとわたしの明日は明るい日ね~
と、続く。
ふむふむ、なるほど、である。

二番の歌いだしは
~若いという字は苦しい字に似てるわ~

~涙が出るのは若いというしるしね~
と、続く。

「おいおい!そら、ないで!」
と、子供心に思った。
象形文字じゃあるまいに、“似てるわ”はいかがなものか。
それでは“若い”がかわいそうである。
今でもそう思う。

2008年3月1日土曜日

元始、私は太陽であつた

細君から相撲の番付を頼まれ調達した。
昔、二姫からも頼まれたことを思い出し
「そういえば、二姫の友達か担任から頼まれて調達したことがあったが、もうそっちは大丈夫なのかね?」
と、聞いたところ、細君は素っ頓狂な声で
「はぁ~っ?」
と言い
「何年前の話を言ってるの?もう10年以上前の小学校一年生くらいの時の話じゃない、それ」
と、侮蔑を含んだ声が返ってきた。
「うーむ、そうであったか。まぁ私にとっては一姫も二姫も赤ん坊である時から今に至るまで、大して変わったような気がしないのだよ。自分自身も含めてね」
「それは、まさにあなたが自分中心に世の中が回ってるって思ってる証拠よ。本当におめでたいわねぇ」
「なるほど、私中心か。そうか。回りは私を中心に公転している地球みたいなものだから季節の移ろいがあるわけで、つまり私は太陽か。それでみなに日差しをさんさんと降り注いでいるわけだね」
「なにまたジコチューなこと言ってるわけ?あなたが振りまいてるのはせいぜい顰蹙(ひんしゅく)じゃないの。あとトイレに行ったら便器に●●●を振りまいて、掃除が大変だったらありゃしない」
「トイレに行って●●●をして何か悪いのかね。●●●をするためにトイレがあるのであって、もし私がベッドルームで●●●をしたら大変なことになるだろう?」
「当たり前じゃないの。そんなことしたら自分で掃除してよね」
「何を現実的な話をしているのかね?私が本当にそんなことをするとでも思っているのかね」
「どうでもいいけど、2階のトイレで●●●するのやめてくれない?3階のトイレでしてよ。パパが入ったあとは臭くてしばらく使えないんだから」
「どこのトイレを使おうと私の勝手ではないか。3階のトイレが私専用などといつ決まったのかね。第一私だって広い3階のトイレの方が好きだから3階を好んで使っているのであって、2階でするのは我慢ができないからではないか。3階に行こうとして途中の階段で漏らしてしまってもいいのかね」
「おしりに栓でもなんでもして上がればいいでしょ」

大相撲の番付の話が、私のおしりの話に発展してしまった。
時間の浪費であった。

唯一の収穫は、私が太陽であることが分かったことだ。