2008年1月4日金曜日

年賀状

年賀状なるもの、まことに厄介なものである。
虚礼廃止が叫ばれて久しいが、さりとて年賀状ごときで、不義理な輩(やから)と思われるのも理不尽なので、年内には投函するよう毎年頑張っている。
ここ数年はパソコンで管理するようになったのでずいぶん楽になったと思うが、拙宅のパソコンは図版を印刷するのに一枚3分もかかる骨董品なので、矢張りストレスがかかることには変わりない。
いっそのこと毎年親戚を一人ずつ「殺し」て喪中で逃げられれば、と年末がくると毎年思ってしまう。
かと言って、キチンと近況を報せてくるような年賀状は好感が持てるので、私は出さなくても、そういうのは寄越すべきである。
できれば、お年玉クジがいいものが当たる葉書が望ましい。(何十年も調べていないが・・・)

年賀状で毎年不可思議に思うのは、三が日に来る枚数が、私が出した枚数をいつも下回ることである。
私に年賀状を出す予定にしている人は11月中には事前に葉書で通知して欲しいものである。
そうすればその人たちにだけ頑張って年賀状を出せば済むようになる。

パソコンで住所録を管理するようになってよかったのは、“自分欄”と“相手欄”があって、そこには“出”“受”や“喪”などが入力できることである。
普段の付き合いも減り、どちらからともなく疎遠になって、数年“空白”が続くと、ああこれで年賀状を出さなくて済むと、ほくそえんでしまう。

厄介なのは、今年からはもう出さなくても大丈夫だろうと安心していると、その相手から元旦に届いてしまうことである。
先方の住所録の管理ミスだろうと、一年のあいだ息を潜めていると翌年また元旦に届いたりする。
あわてて返事を出して、出すリストに登録して、翌年に律儀に出すと、これって“返事”じゃないか?というくらいのタイミングで届く。
まことに厄介である。

お互い一年交代で“喪中”が続くと2回分は年賀状の交換がなかったわけで、もう大丈夫だろうと出さないでいると、むこうからも出して来ない。
ルーレットで当てたような爽快感がある。

互いの引越し連絡がうまくいかず、“尋ね当たらず”の返送が何度か繰り返されて疎遠になっていくケースも、美しく終息できるパターンと言えよう。

先方誰しも岐度(きっと)出来ることなら年賀状なぞ出したくない筈なので、こういったさまざまな駆け引きはあと10年は続くものと思われる。

内容で言うと、宛名と裏面すべて印刷で、一言もコメントなし、という年賀状も厄介である。
「私に出していること、分かってるのか?」
と疑いたくなる。
そんな年賀状が微妙に住所表記、例えば“1-1-1”と“1の1の1”で二枚来ることなどあると、もうこれは“無意識”で出していること必定であろう。
あとは、いまだに写真年賀状が流行し始めた80年代のように、子供だけの写真の年賀状というのも厄介である。正月早々、DNAの鑑定など勘弁願いたい。

しかし、こんなことを言っていると、本当に年賀状が来なくなるかもしれない。
来なくなるのは構わないのだが、来なくなったら細君や姫たちは必ず揶揄(やゆ)するであろうから、それはそれで厄介なことになる。
バレンタインのように、「自分で自分に」年賀状を書くはめに陥ることだけは避けたいものである。

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