2008年1月14日月曜日

ウルルン

昨夜、遅い夕食を摂りながら『世界ウルルン滞在記、再会スペシャル』を見た。
レギュラーのウルルンも面白いが、時を経て懐かしい人に会いに行ったり会いに来たりする設定が大好きである。
年末に32年振りに瀬戸田しまなみユースホステルの大本さんを訪ねたのも私にとっては再会スペシャルだ。

夕食は鮭のチャンチャン焼き、豆腐ステーキ、おでんなど。
おでんはやはり関西風に“関東炊き(かんとだき)”と言うほうがシックリくる。
その関東炊きを食べながらいつものようにボーッと考え事をした。
ふと取り皿を見て驚いた。
なんと一口残したはずのゴボ天(こっちでは、ごぼう巻と言うかもしれない)の中のごぼうがスッポリと無くなっていた。
「あれ!誰か中身のごぼう食べた?!」
すると細君
「あのぉ、それ竹輪なんだけど・・・。まだボケてもらうには早いんだけど・・・」
斜めに半分に切ってあった竹輪の“尖った”方をカプリと食べて皿に置いていて、考え事をして、その前に食べていたゴボ天から記憶が“トリップ”したようである。

15年前の“16年ぶりの再会スペシャル”を私は思い出していた。
1977年頃だったが、ロータリークラブの交換留学生でシアトルから男がやってきた。
名前は、Brian Robert Duff(ブライアン・ロバート・ダフ)。
確か2歳くらい年上の陽気なおにーちゃん(兄ではない)で、ホームステイ先の最寄り駅が私の家の最寄り駅と同じだったので、よくアメリカンジョークを飛ばしながら一緒に電車で帰った。(ただ、ブライアンは日本語が堪能だったので、アメリカンジョークは私の記憶違いかもしれない)
それに、赤穂市内の市営テニスコートは2時間30円で借りられたので、何度かテニスも一緒にやった仲であった。
その後どうやって別れたかも記憶にないが、いつのまにかブライアンはシアトルに帰っていた。

15年前の1993年2月、ある研修でシアトルに行く機会に恵まれた。
「シアトルと言えば、ブライアン」
短絡的かもしれないが、そう考えた。
いま思い出しても短絡的である。
なぜか再会できるのではないかと考え、策を考えた。
104に電話してみた。
するとKDDの国際電話番号案内にかけるよう言われた。
かけてみた。
「あの、シアトルということしか分からないのですが、それでそこにいるかどうか分からないのですが、ブライアン・ロバート・ダフって人の電話番号はありますか?」
あった!のである。
しかし、それが本当にあのブライアンかどうかはもちろん分からない。
とりあえず、かけてみた。
訳の判らないテープが流れる。
何度かけても同じである。
聞き取ろうとしても聞き取れない。
中学・高校・大学と10年間も英語を勉強したはずなのに、何を言っているのか判らない。
声もブライアンのようで、違うような気もする。
再度KDDの番号案内に電話して、その経緯を説明して、交換手のおねーさん(姉ではない)にかけて聞いてみてくれと頼んだ。
なぜかやってくれた。
しかしおねーさん(姉ではない)も
「留守番電話のようですが、“ここはあなたの世界です”というような意味で、名前を特定できるような内容ではありません」
とのこと。
諦めた。

渡米して、何箇所か都市を経てシアトルへ。
シアトルの訪問は2泊であった。
1泊目の夜、研修を終えて集合での夕食を終え一人でホテルのバーへ。
バーテンダーの渋いおじさんに、日本を経つまでの経緯を話してみた。
もちろん、英語での会話である。
本当である。
するとおじさんは
「それはきっとメッセージを残せる留守電だよ。何かメッセージを残しておいたほうがいいよ」
と、アドバイスしてくれた。
英語でである。
本当である。
ホテルの部屋に戻って電話をかけてみた。
米国内だと違ってかかるんじゃないかと期待したが、日本で聞いたのと同じ、訳の判らないメッセージが流れた。
仕方がないので、そのあとにメッセージを残してみた。
「憶えてる?もし君があのブライアンなら、私はいま○○ホテルにいるから連絡ちょうだい」
もちろん英語である。
本当である。

翌朝、朝食を終え部屋にいるとホテルの交換から英語で電話が入った。
「ブライアンさんから電話ですが、つなぎますか?」
♪☆※!○$◇(^^)・・・こんな気分になった。

2泊目の夜、16年振りに再会した。
ボロい車でホテルに迎えに来てくれた。
会話は途切れることなく続き、ワシントン大学の学生街にあるトルティーヤチップスの美味いメキシカン料理屋、海辺の蟹が美味いシーフードレストラン、そして静かなバーと3軒ladder(はしご)した。(会話は英語ではなく“ルー語”であったような気がする)
ブライアンも陽気に飲酒運転してくれた。
ちなみに、あの留守電のことを話すと、ブライアンは笑いながら
「ああ、あれは“ここからはあなたの世界だよ”つまり、電話をかけてきた人の世界だから、メッセージを残してって意味で、あれはアメリカ人の友達からも、判りづらいって苦情が来てて変えようかと思ってたところなんだ」
とのこと。
“慰め”だったかもしれないが、KDDのおねーさんも“クリア”できなかったのだから、本当に偏屈なメッセージだったのかもしれない。

Ten months later、その年の12月、クリスマスカードを送った。
返事は来なかった。
翌年、1994年も送った。
返事は来なかった。
1995年も送った。
返事は来なかった。
1996年1月にブライアンの母上から手紙が来た。

January 28,1996
Dear
This is to let you know that Brian died two years ago on December 26,1993.
He got sick in October and died in December of aids.
Sincerely,
His mother

10年前の1998年5月、シリコンバレーからボストン、ニューヨークへの出張があった。
スケジュールに余裕が生じたので、ニューヨークからの帰途、途中下車ならぬ「途中下機」してシアトルに寄り、アポなしでブライアンの家(もちろん初めてである)を訪問してみた。
ガレージのシャッターを閉じているおじさんがいたので、母上からの手紙を見せて訪問の旨を話したところ
「よく来てくれた、おーい!かあさんや!」
と、叫び招き入れてくれた。
玄関で靴を脱ごうと思ったが、土足で入ることができた。
しょうもないことで、アメリカを実感した。
ブライアンの思い出話を一通りしたが、やはり寂しそうであった。
適当なところで辞して別れた。

ごぼうを探すのは当たり前である。

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