2007年12月2日日曜日

青春の蹉跌

年末に『瀬戸田しまなみユースホステル』を予約した。
ユースホステルに泊まるなど何十年ぶりか。
だいたいユースホステルというものは、だんだんと衰退していると何かで読んだことがあるが、そうかもしれない。
アルコールはご法度であるし、寝具の片付けは自分でやらねばならないし、夕食のあとはミーティングがあったりする。おまけに男女は別々の部屋である。
それらがいまでも全部そうなのかは知る由もないが、久しぶりにユースホステルに泊まることに決めたのである。

昭和50年、広島東洋カープが初優勝でペナントレースを制した。
そのせいもあったか、カープのファンでもなかったが、年が明けて正月松の内に、高校友人F原君と広島旅行に出かけた。
広島駅前はカープ初優勝の祝賀ムード満開で赤色で埋め尽くされていたことは印象に残っている。どこを回ったか記憶は定かではなく、四国にも足を延ばしたかもしれないが、宮島ユースホステルと広島坂町ユースホステルには泊まったと記憶している。
江田島にも寄って、港の近くにお好み焼き屋にフラリと入ったのだが、その美味さにまず脱帽した。お金を払おうとすると一人で切り盛りしていたおばちゃんが「あっ、お金はその箱に入れておいてください」と、お菓子が入っていたような四角い形で丸い口の開いた缶を指差したことは、鮮烈な記憶として残っている。
どういう経緯で選んだのか広島から電車で20分くらいかかる坂駅から少しばかり歩いたところにある坂町ユースホステルにとにかく泊まったのである。
ユースホステルというのは、若者を躾ける意味合いもあったのか、やたらルールに厳しいところが多かったような気がするが、坂町YH(ユースホステルの略称。もっと早く略称を使用すればよかった)は穏やかな空気が流れていた。夜になっても消灯などと無粋なことは言われず、ペアレント(YHのオーナーの呼称)といろいろ談笑した。
そこのペアレントはやさしい笑顔ながらも、目は厳しく一種中国拳法の達人を思わせるおじさんだったが、宿泊に来ている若者の手相を見て占っていた。猿なみに好奇心旺盛な私は当然のごとく手相を見てもらった。
高校一年生の私に向かって拳法の達人は「君は大学受験を甘く見ているなぁ。それに年をとってから病気をするから気をつけなさい」
ろくなことを言わないおっさんだ、と思いながらも、なぜか心に引っかかるところがあった。

2年後、大学受験で記録的な連敗を喫したのであるが、結局大学入学を果たしたのは2浪後の二十歳(はたち)であった。
そんなこともあって、その後は坂町YHのことは、ときどきふと思い出す存在になった。
そして昨年、実弟を癌で亡くしたことも作用してか、再訪したい気持ちが日に日に強まった。
手相などは、その人のその後の生活や努力でどんどん変化するはずであるから、もう一度見てもらおうと思ったのである。
こんなときにインターネット時代はありがたいと実感するのであるが、坂町YHを検索してみると、そこのペアレントは大本さんという名の方だと判り、昭和61年父親の死をきっかけに奥さんや息子さんを置いてひとり故郷の瀬戸田に帰ってきて新しくYHを開設しているとの情報を得た。坂町YHは人に任せているらしい。
ルート検索した結果、帰省先の播州赤穂を越えて福山まで行き、そこから高速バスで行き1泊してから帰省することに決めた。
予約の電話をしたのが11月28日(水)、無事年末に予約をして、中国拳法の達人と約32年ぶりに再会できる運びとなった。ネットで見る大本さんはずいぶん年をとられたが、やはり中国拳法の達人の面持ちは健在である。
その日帰宅していつものように日経夕刊を見て驚いた。今まで気づかなかったが「日本の史跡101選」というページがあり、毎回2箇所紹介する趣きのようであるが、№66赤穂城跡(兵庫県赤穂市)と№67草戸千軒町遺跡(広島県福山市草戸町)とあるではないか。
福山はバスの乗り換えだけのつもりで旅程を考えていたが、急遽少し余裕を持たせて草戸千軒町遺跡を訪問するスケジュールに変更した。

そんなわけで、48歳にしてユース!ホステルに泊まることになったのであるが、私にとんでもない予言した大本さんが病気で寝込んでしまわないことを願うばかりである。

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