昨夜は高校同級生K橋と痛飲(彼は飲まないが)した。
数多(あまた)噴出した話題の中で、広美おねーさま(姉ではない)の話。
K橋の近所に住んでいたおねーさん(K橋にとっても他人である)で、K橋の近所のある寄り合いに呼んでもらって、そこで目にしたのが私にとっては最初で最後であるが、兎(と)に角(かく)、一般人であれほど美しい女性は見たことがない。
有名人で言うと仁科亜季子か。
K橋によると我々より5歳年上だったとの由。
あれからは私もK橋に倣(なら)い、当時大阪の音大生だった彼女のことを会話の中では広美おねーさまと呼ぶようになった。
直接聞いたわけではなくK橋からの又聞きだが、広美おねーさまは独特の“初恋理論”を持っていた。
~恋とは恋愛のことであるから、そもそも両想いのことである。だから初恋というのは、その人にとって初めて成就した恋のことを云うべきであろう。だから、世間で使われているような、初めての片思いを初恋と呼ぶのは、少し違うのではないか~
当時、この理論を聞かされ、中学生だった私が思ったことは、
“では、私の初恋はまだなのだなぁ”
“恋という言葉のハードルが上がったなぁ”
“年上女性、特に美人の云うことは、説得力がある”
“広美おねーさまの初恋は、もう存在したのだろうか”
など、どんどん妄想は広がっていったものである。
京都駿台予備校の名物講師(と勝手に思った)、古文の田中重太郎先生の夏期講習での授業(おそらく昭和53年)を受けたときのこと。
先生が恋について語り、黒板に恋の旧字体“戀”と大書された。
「漢字というものは、よくできてますねぇ。例えばこのコイという字。いとし(糸し)、いとし(糸し)という(言う)こころ(心)」
ほぉ~っ!と思った。
後年、私なりに持論を確立した。
いとしは、いとしいということで今の漢字は“愛しい”と書くが、もともとは“糸し”だったのではないか。
“糸し”は形容詞で、想う人と“(糸で)結ばれていたい、つながっていたい”と願う気持ち。
“糸し、糸し”と続けることによって、強調する気持ちと、糸を紡(つむ)いでいくような能動的な意志も加わるように感じる。
成就という“状態”ではなく、ひたすら好きな異性(私は同性愛を認めない)を“想う”ことが、恋なのではないかと考えるようになった。
昨夜、K橋と別れ、酩酊して茅ヶ崎駅のホームを歩きながら、ふとKさんのことが頭に浮かび“連休中は会えないなぁ”などと思ったら、少し胸が締め付けられた。
「これは・・・、もしや?」
狭心症の兆候かもしれない。
今度、医者に診てもらうか。
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