今日、道を歩いていて不思議な感覚に陥った。
これは初めてではない。
むしろ何度もある。
それは、歩いていて何故前に進むのだろう、という疑問が湧くのである。
右足を着地する。
右足は地面に着いている。
右足は地面で止まっている。
今度は左足を着地する。
左足も地面に着いて止まっている。
しかし、上に乗っかっている体は前に動いていく。
足は、瞬間は止まっているにも関わらず。
申し訳ない。
もう少し分かりやすく解説する。
ブルドーザーや戦車。
あれはたいていキャタピラで動くようになっている。
キャタピラを見ると、駆動輪は確かに回っているが、地面に着いている部分はハッキリと止まっている。
しかし上に乗っかっているボディーは前へ前へと進んでいく。
足も、キャタピラもズルズルと滑っているのなら、上に乗っかったものが前へ進むのは理屈が分かる。
しかし、地面に接している部分は止まっているのである。
なのになぜその上にある部分が移動していくのか、分からない。
そんな不思議な感覚に時々陥る。
基本的には違う話だが、感覚としては同じような種類に、駅のホームに滑り込んできた電車の中の景色がある。
ボーッと見ていると、瞬間ストップモーションのように中の様子が見える時がある。
しかしどんなに頑張って目で追おうとしても、速すぎて絶対に見えない。
決まってボーッとしているときに、時々起こる不思議な現象だ。
これに関してヒントになりそうな話を本で読んだことがある。
『進化しすぎた脳 中高生と語る〈大脳生理学〉の最前線』池谷裕二著(講談社)に書いていたと思うが、人間は死に直面したとき、例えば事故に遭って車が横転する瞬間、風景がスローモーションのように見えて、今までの出来事が走馬灯のように見えると云う。
これは決して不思議なことではなく、脳生理学的には説明のつく話との由。
つまり人間は生命危機に晒(さら)されると、聴覚や視覚は働くことを止め、脳神経がフル稼働するのだということが書いてあったように思う。
随意筋で目玉を動かして景色を見るのではなく、視神経で捉えた景色を脳が直接画像処理するのである。
そして走馬灯の話は、脳の深層に封印していた記憶を、呼び覚ました結果だとも。
非常に興味深い話であった。
私の脳は極めて原始的な働きを、たかが駅のホームで果たすようである。
人類(ホモサピエンス)が生まれてせいぜい20万年。
それから今の私まで、サルが雲梯(うんてい)をするように、間違いなくどの瞬間も途切れることなく祖先が繋(つな)がって私に至った。
そして私はいまこの地球に留まっている。
20万年前からしたら、恐ろしいほどのスピードで歴史が動いてきたにも関わらず。
もっと遡(さかのぼ)れば、地球誕生の46億円年前は、私はおそらく塵(ちり)のような存在だったはずだ。
それから何か奇跡があって、アミノ酸みたいなものに変身したに違いない。
それからはミジンコのようになり、三葉虫くらいまで進化した時代もあっただろう。
三葉虫が、私になったとしたらカフカもびっくりである。
矢張(やは)り私と云う存在が偉大であることが、この一事でもよく分かる。
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