一冊の本によって、もやもやしていたものが氷解することがある。
読書の醍醐味でもある。
予(かね)てより、違和感を抱いていたものの一つに、ペット愛好家の雰囲気がある。
特に大型犬をこれ見よがしに連れまわしている人間に、堅気(かたぎ)の気配は感じられない。
また中型犬や小型犬、また猫なぞを溺愛(できあい)している人も、私にとっては恐怖の対象でしかない。
『ずばり東京』開高健著(光文社文庫)は、活字がギッシリで、コラムニストの泉麻人氏の解説も入れると430ページの労作だ。
東京オリンピックの頃、昭和38年の東京の景色、風俗を見事な文章で綴っている。
深夜喫茶あり、多摩少年院あり、トルコ風呂ありの、云わば大人向け『三丁目の夕日』だ。
その中の一項“お犬さまの天国”の中に、冒頭の私の違和感を霧消させてくれる文章があった。
但し、以下はペットを愛する方には刺戟(しげき)が強すぎるので読まないでいただきたい。
あと、私を愛する方も、こんな文章に共感したことが判ると、私の好感度が下がるので読まないでいただきたい。
~私の漠然とした予感では、犬好きも猫好きも、どこか病むか傷ついているかという点では完全に一致しているのではないかと思う。どこか人まじわりのできない病巣を心に持つ人が犬や猫をかわいがるのではないかと思う。犬や猫をとおして人は結局のところ自分をいつくしんでいるのである。動物愛護協会のスローガンは、動物愛と人間愛を日なたのサイダーみたいに甘ったるく訴え、主張しているが、私は信じない。犬や猫に温かくて人間には冷たいという人間を何人となく見てきた。犬や猫に向う感情はとどのつまり自分に向けられているのであって、他者には流れてゆかないのではないかと思う。~
昔、ペットという言葉が人口(じんこう)に膾炙(かいしゃ)していなかった頃、人の家で存在する動物は、遍(あまね)く家畜と呼ばれていた。
今で云うペットも家畜であった。
いや、動物を愛玩するという奇妙な習慣が生まれるまでは、動物たちは家畜と云う名前で人間に囚われている事実をして、動物としてのアイデンティティをなんとか守っていた。
映画『猿の惑星』を観ても分かるように、我々は異種の支配下に置かれたくはない。
動物も同じであろう。
ペットとして愛玩されるくらいなら、ハッキリと、食われる、卵を産まされる、留守番をさせられる、などの苦役を課せられて、囚われている現実を直視できるようにしてやることが、彼らの種(しゅ)のプライドを尊重することになるだろう。
ここで私は考えた。
それならペットに限らず、唯物的な考え方も似たようなものではないかと。
モノに固執する人は、どこか病的だ。
開高氏の顰(ひそみ)に倣(なら)えば、モノに固執することも、自分かわいさ故(ゆえ)で、自己をモノに投影しているだけかもしれない。
我が家は、ローンがあと25年もあると云う事実からすれば、悲しいかな、私自身みたいなものである。
だから姫たちが、壁や床をぞんざいに扱ったりすると、ひぇ~っ!となる。
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