美術品なぞと云うものは、株や小豆(あずき)と同じであろう。
人の手によって値が付くということは、それらは絶対価値ではなく、好みや思惑が反映された投機物に過ぎないということだ。
テレビのニュースで見たことがあるが、中国の広東省深圳(しんせん)には絵画の複製市場がある。
あの巧さを見ていると、絵画は美術品と云うよりも工芸品であることに気付く。
ゴッホの『ひまわり』をウン十億円で取引していた美術品バブル時代を思い出してみると、絵画なぞ工芸品と割り切ることも必要ではないか。
かく云う私も『枯れ草を持つ少女』という、おそらく時価総額は、ウン十億円は下らないであろう油絵を所持している。
しかも我が家の玄関にさり気なく飾っている。
ただ、ウン十億円と見積もっているのは私だけで、かかったのはカンバス代だけだった。
いや、額のほうが絵よりも遥かに高かった。
大学時代、美術部が学際で出展した絵を見に行き、一目で惚れてしまった絵だ。
製作者をを示すカアドを見ると、学年から云って同級生のようだが、面識のない“K出さん”という女子だった。
幸い美術部には知り合いの女子K玉さんが在籍していた。
K玉さんの顔は竹内まりあを美形にした感じで、おそらく彼女も意識したのか、竹内まりあのようなソバージュにして、またそれがよく似合っていた。
そんなK玉さんに、『枯れ草を持つ少女』が欲しいので製作者を紹介してくれるよう頼んだ。
彼女は
「私の描(か)いた絵は欲しくないの?」
と訊いてきたので、不要である旨を簡潔に伝えた。
彼女はかなり不機嫌になり、一瞬危険を感じたが、なんとかK出さんに取り次いでくれた。
私の人徳だ。
K出さんも美人だった。
やや背が低く、色白の少し眠そうな表情は、私好みだ。
なので、少し照れながら云った。
「あの・・・『枯れ草を持つ少女』すごくいいですね」
「えっ?そうですか。ありがとうございます」
「是非、あの絵を売って欲しいのですが」
「えっ?私の絵をですか?」
「はい、是非」
「そんなに気に入っていただいたんなら・・・」
「本当ですか?!おいくらお支払いすればいいですか」
「いくらだなんて。カンバス代だけで結構ですよ」
のような、やり取りがあり、名画『枯れ草を持つ少女』は私の所有物となった。
『枯れ草を持つ少女』を見るたびに、ゴッホの『ひまわり』にウン十億円の価値なぞあるのだろうか、と素朴に思ってしまう。
私の一番好きな絵はミレーの『晩鐘』だが、あれだっていくら私が大金持ちでも、大金を払ってまで購入しようとは思わない。
しかしいま考えてみるとK出さんには悪いことをしたのかもしれない。
K出さんの言葉を額面どおり受け取って、カンバス代だけしか払わなかったのだから。
あの絵を見初(みそ)めたのが貧乏学生ではなく、良識ある社会人だったなら、かなり上乗せして払っていただろう。
ただ今の私は、今も貧乏なので、今でもカンバス代だけを払うだろうが。
0 件のコメント:
コメントを投稿